日本建築学会北陸支部広報誌 Ah!34号
シリーズ「隠れた建築」(福井)

聖徳太子堂

小川 利男
(小川建築設計事務所 所長)


写真1 聖徳太子堂正面


写真2 聖徳太子堂側面


写真3 相輪詳細


写真4 絵様

福井県越前市(武生)の市街地は、正徳元年(1711)に作られた300年前の地図が今でも通用するという稀有な町であり、古い社寺が規模の小さい町にしては数多く残っている。その市街地の中央に位置する平和町に聖徳太子堂はある。地元では、親しみを込めて「おたいしさん」と呼ばれていて、特定の宗派に属さず区(平和町)で管理されている。

文献によれば、江戸時代に当地区で生まれた、上村伊兵衛という廻国行者が諸国を巡歴したときに携えていた聖徳太子像を、上村伊兵衛の死後、その旅日記とともに当地区で祀ったのが聖徳太子堂の起源らしい。武生には古来より大工集団もあり近くには指物師の町である『タンス町』もあるが、この由来から考えると、いわゆる「大工の祖」、「指物の祖」として聖徳太子を祀ったということではないらしい。

この御堂の建築年代は、棟札によれば嘉永五年(1852)であるが、それより前「天保十年(1840)再建」という文献も残っており、現在の御堂は少なくとも三代目の建物であることが分かる。

本堂は正面1間、側面2間の方形造、桟瓦葺で、平面は2.95m×2.95mの正方形の小さな御堂である。正面に1間の向拝を設ける。正面に5級の木階を有し、正面及び側面に縁を回し高欄をつける。

背面とは脇障子で区切られる。向拝の柱は角柱であるが、母屋部分は丸柱であり、外観を親しみ深いものにしている。構造は和様を基調とし、長押をまわし、柱上に出三斗を置く。軒裏は一軒の繁垂木で簡潔である。絵様は控えめながら、松竹梅をあしらうなど江戸後期の華やかさを感じさせる。

柱間装置は正面に引き分け菱格子戸、側面2間は舞良戸建込みで、5月21,22日の祭礼には正面、側面とも、取り外され、三方吹き放しとなる。

内部は、正面に3間の祭壇を設け中央間に、前述した江戸時代前期制作と思はれる聖徳太子孝養像を、向かって右側間に、江戸時代後期作の天神坐像、左側間に、江戸時代後半期作の、善光寺様式の阿弥陀三尊像を安置する。天井は漆塗りの棹で構成された格天井である。

特徴的な外観は、正面にある向拝の屋根を葺きおろしとせず、方形の屋根の下に差し込む構成にしており、方形の印象を強めている。屋根頂部に、福井産の笏谷石の相輪をのせている。その高さは露盤から水煙まで4m近いもので、水煙の下から四隅の隅棟の先端に向かって宝鎖がはられそれぞれに風鐸が2個ずつさがっている。8個の風鐸が空に浮かぶ姿は、笏谷石の相輪のバランスのよさとともに優美である。重量のある石の相輪をどのようにして耐風、耐震的に組み上げたのか、また小屋組みにどのようにして留めつけたのか興味が持たれる。

その他に、当堂には和算の「算額」が2枚奉納されている。前述の学問の神様である菅原道真の天神坐像との関連であろうと思われる。1枚は、現代風に言えば連立3元1次方程式の問題で、他の1枚は連立3元6次方程式の問題になるらしい。いずれも嘉永年間の日付があり当時の当地の数学の水準がしのばれる。

昨年平和町を含む四町が連合して、「歴史と伝統」を中心においた、「四町街づくり計画」が策定された。「おたいしさん」のような貴重な歴史遺産を活用した街づくりになることを切に願うものである。