日本建築学会北陸支部広報誌 Ah!35号


2009年度日本建築学会北陸支部総会記念講演報告


「民家はどのように造られてきたか
 −経済合理性からみる民家の歴史−」


講師: 平山 育男 (長岡造形大学 教授)


講師近影


図1 研究の切っ掛けとなった稲城市森家住宅
18 世紀初期に建てられたものが明治時代初期の
火災後、 2km 程の地から移築された。


図2 柏崎市 黒崎家住宅
中越沖地震で倒壊。明治時代中期の火災後、
移築された土蔵造の町家


図3 長岡市 川上家住宅
大正5(1916)年の新築であるが、
小屋組は古材を用いる。


図4 長岡市 朝日酒造松籟閣
昭和9(1934)年建築。壁、天井に工業製品に
アールデコの意匠と工業化社会における
住宅建築のあり方を先進的に示す。

 2009年5月16日(土)に新潟工科大学にて日本建築学会北陸支部総会が開催され、通常総会終了後記念行事として長岡造形大学教授の平山育男氏による講演会が開催された。参加者は建築学会員だけでなく、新潟工科大学の学生や一般の方などを含め、158人と盛会であった。

  まずは同姓同名の有名人とご自身の写真を並べる自己紹介から始まり、和やかな雰囲気で始まった。 平山先生の工学博士の学位研究時代は寝殿造がテーマで文献を調査する世界であったが、在籍した早稲田大学での文化財修復の現場で、部材の一つ一つ見て調べるまったく違う世界を経験したことから建造物保存の世界に入った。民家は近づきがたいものと思っていたが、多摩ニュータウンに隣接する東京都稲城市の民家の調査をきっかけに、民家はどのように残ってきたのか考えるようになったという。度重なる改造があり、生活の要求があり、時代が求める形があり、変化していった民家の歴史には加えて「移築」という要素が見え隠れした。しかし、自身、「民家の移築」がどのようなものであるのか分からず、この研究を新たに手掛けることになったという。

  宮本常一先生が「昔は村の1割か2割はそうした家(移築)ではなかったかと」という言葉を残していた。東京都、神奈川の事例を調べると少なくとも13%が移築の民家であり、宮本先生の言葉が裏付けられた。移築の理由は火災・災害が多く、分家に際し購入する場合もあった。移築の距離も徒歩1時間(4キロ)圏内が多く、移築までの期間は平均77年(3世代)であった。また、移築の行われた時代は20世紀前半までだが、古代・中世の時代も移築が盛んに行われ20 世紀後半から少なくなることを明らかとした。

  移築が行われた理由として、木材の刻みが終わっていることの経済性と徒歩圏内の地域社会で成立していることが挙げられるという。移築は質の担保、迅速、安価という経済合理性に合った行為であり、翻って日本全国で行われていたと見なせる。特に富山県は30%石川県は26.1%と移築の割合が多い。これは加賀藩の新築制限の影響と見たい。次いで鹿児島、宮崎と続くのは分棟型の故か。また、合掌造りは2,3回移築が行われるものも散見されるとした。
  しかし、民家の移築は無くなった。何故なのか? 民家は近代どのように変わったのか? 古材利用の基本は「もったいない」ということと言う。上棟までにおける建築費の1/3 は材料製材、木挽き手間であった。ところが電気の供給が始まった大正時代あたりから過酷な労働であった手挽きが機械挽へ変化した。手挽の100倍速、手間賃は2分の1ということで、材木が比較的安価に手に入るようになり、その結果古材使用が減ることとなったとする。同じように和釘から洋釘への変化もあった。釘を使わない木組みの伝統構法は高い金具(釘)を使わないことも理由として考えられたが、安い洋釘はその理由を逆転させたとする。

  つまり大量生産大量消費を可能にした産業革命以降、移築は激減したとする。また、木材や金物を安価に提供できる建築工業化の経済システムの中で移築の選択肢は少ない。カタログから窓、床材、天井材、壁紙といった部品を選び組み立てる、これが建築だろうかと平山先生は最後にわれわれに質問を投げかけて講演を結んだ。平山先生の言うように今は当たり前のこととして店に行き服を買う。民家の形成に関わる問題を研究することは我々の問題を振り返るきっかけとなる。吉野家の「安い・早い・うまい」にもうひとつ大切な何かを加える必要がありそうだ。(記:広報部会長 丸谷芳正)