日本建築学会北陸支部広報誌 Ah!35号
シリーズ「隠れた建築」(長野)

稲核の風穴群

梅干野 成央
(信州大学工学部建築学科 助教)


写真1 家庭用の風穴


写真2 業務用の風穴


写真3 業務用の風穴の内部

国土の大部分を山地が占める日本では、古くから、山の恵を得ながら、生活がいとなまれてきた。樹木を伐採していたソマや鳥獣を狩猟していたマタギなどはその顕著な例である。こうした山の恵のひとつに、山から吹き出る冷風がある。冷風が吹き出る場所は風穴とよばれ、そこでは冷風をいかして様々なものが冷蔵されてきた。風穴には、洞穴のかたちをしたものと斜面を掘削して建設したかたちのものがあるが、いずれのものも、自然に吹き出る冷風を利用した、いわば、天然の冷蔵庫である。

長野県松本市安曇の稲核(いねこき)には、18棟の風穴が遺存している。すでに利用されていない遺構を含めれば、その数は38棟にもなる。稲核は、上高地から流れ出る梓川の上流域に位置する集落である。梓川のつくった河岸段丘の上に里があり、そのすぐ背後に山がせまっている。風穴は、多くの場合、里と山の境目に群をなして分布しており、冷風が吹き出る斜面を掘削してつくられている。そのつくりは、斜面を掘削してできた壁面に石積みを築き、その上に木造の切妻屋根を構えるという形式が主である。そのため、石積みの一部分と屋根だけが地上にあらわれており、そのほかの部分は地中に埋まっている。里と山の境目の斜面にひっそりとたつそのたち姿は、まさに、隠れた建築であるといえる。

風穴の用途は、家庭用と業務用の二つに分類することができる。家庭用の風穴は、カザアナ、カザナと呼ばれることが多く、主に食料の冷蔵を目的として建設されたものである。とくに、稲核菜(いねこきな)と呼ばれる野菜を風穴のなかで漬けた漬け物は美味しく、地域の特産品にもなっている。一方、業務用の風穴は、フウケツと呼ばれることが多く、主に蚕種(蚕の卵)の冷蔵を目的として建設されたものである。蚕種を風穴で冷蔵することによって、蚕種の生理を害することなく、発生を抑制することができる。その商売は、蚕種冷蔵業と呼ばれ、日本に文明開化をもたらした蚕業の発展の一翼を担っていた。蚕業が衰退した今日では、植林樹の苗木や野菜の種子などが冷蔵されている。

このように、稲核では、古くから冷風という山の恵みを巧みに利用してきた。最近では、見学用の風穴の整備や風穴の仕組みを活かした製品づくりに取り組むなど、風穴の利活用が積極的に行われている。その生活は山と人の共生のいとなみであり、今にのこる風穴はその共生の歴史を物語る貴重な文化遺産であるといえる。