日本建築学会北陸支部広報誌 Ah!36号
支所だより 〜長野〜

土壁の起源についての考察

新川 竜悠
(信州大学環境施設部)



図1 板壁(年中行事絵巻)


図2 網代壁(年中行事絵巻)


  10年前ぐらいから、テレビの影響もあると考えられますが、土壁についてのワークショップや研究会などをよく見かけるようになりました。ただ、土壁の性能やその印象、工法など多くのことが語られているものの、やはり歴史となると、やはり色壁が発達してきた近世の京都や土蔵のことが多いように感じられます。そのため、今回は日本における土壁の起源について少し考察してみたいと思います。

  日本における土壁の歴史研究と言えば、代表的な研究者として山田幸一先生と川上邦基先生があげられます。この両名の起源についての見解は、正倉院文書を証拠にして仏教と共に大陸文化のひとつとして導入(山田)と日本書紀に見られる蛍壁をもって起源(川上)としています。いずれも歴史的にはこれ以上遡ることができなかったと考えられます。その理由として、土壁が可塑性をもっており、木材や石材とは異なり、その遺構が極めて遺りにくいことにあります。そのため、土中からは、現在もほとんど出土品が見つかることはありません。ほとんどというのは、土壁が出土するケースが火事跡の残る箇所でレンガのように硬化した状態でのみ見つかっているためです(草戸千軒遺跡や法隆寺境内若草伽藍より発見されている)。

  そのようなことから、土壁の起源については、現在のところ文献や絵画資料で遡る以外に方法がないのが現状です。そのため、山田先生は、土壁の技術は大陸から渡ってきた文化としたのでしょう。この大陸説を絵巻物といった絵画資料でもう一度確認してみると、土壁は寺院での使用が多く、町屋は板壁や竹を編んだような網代壁ばかりであることがわかります(図参照)。貴族住宅においても鴨居上の一部に留まっていました。しかも、町屋での土壁使用は室町時代の色壁文化が入ると爆発的に増えてきますが、それまでは見られませんでした。これらの資料から、大陸から渡ってきた土壁は日本において寺院から始まり、約10世紀近い時を経て、一般市民にその技術が伝わったと推測できます。

  ただ一点気になったこととして、絵画資料をくまなく見ると、11世紀の信貴山縁起の農家建築では外壁に土壁が使用されていることがわかりました。ただし、この土壁は寺院や貴族住宅の白色の仕上げ(漆喰?)や京都の色壁とは異なり、仕上げがなされていませんでした。農家建築自体がほぼ描かれていない絵画資料で、しかも1つだけの事例ではなんとも言えませんが、日本古来の形を色濃く遺す農家建築で土壁が使用されていたということは、土壁の使用された時期は案外古いのかもしれません。この北陸支部においても多く見られる古民家の土壁が、いつから伝わる文化なのか、「もしかしたら大陸文化以前の日本古来のもの?」などと思いながら見つめると少しロマンチックな気分になるのではないでしょうか。