日本建築学会北陸支部広報誌 Ah!37号

建築学会大会2010 [北陸] 報告
メインテーマ:つなぐ−継承と創生−

見学会:歴史をつなぐ
「富山県の近世・近代建築探訪バスツアー」



松政 貞治 (富山大学芸術文化学部教授)


写真1 五箇山・岩瀬家


写真2 清水町・旧配水塔


写真3 瑞龍寺


写真4 本丸会館本館

 9月12日(日)の、「歴史つなぐ」見学会は、当初は「富山の近代化遺産探訪バスツアー」という標題で、共に分離派建築会の中心メンバーの設計による黒部川第二発電所(山口文象)と高岡本丸会館本館(矢田茂)を中心に、富山県に残されている明治・大正・昭和の近代化遺産を巡る計画であった。しかし、発電所の見学が急に困難となったため、県西部を中心にした「富山県の近世・近代建築探訪バスツアー」に変更した。

富山駅前を朝7時半に出発し、
 世界遺産・五箇山合掌集落(重文・岩瀬家・村上家、菅沼地区、相倉地区)
  〜福野高校重文・巖浄閣(旧富山県立農学校)
  〜昼食
  〜高岡市清水町旧配水塔
  〜国宝・瑞龍寺
  〜高岡本丸会館
  〜重伝建・高岡山町筋(富山銀行、重文・菅野家)
と訪問し、高岡駅を経て17時に富山駅前で解散する一日となった。

  松政が下見を重ねて企画し、見学先の予約と配付資料の作成を担当し、富山県庁の高畑訓氏が当初から全体をまとめ、当日は松政が解説役、高畑氏が幹事及び会計として同行した。参加申込み者は当日まで入れ替わりして最終的には我々を加えて34名となった。参加費は交通費・入館料・資料代・昼食代を含めて5000円を当日に徴収した。 早朝の高岡市付近は大雨であったが、富山駅を出発する頃には雨は上がり、高速を通って9時前に南砺市の五箇山に着く頃には晴れ間も見え、幸いその後の天候は回復した。

  五箇山の見応えのある岩瀬家(江戸後期)・村上家(約400 年前)では十分に時間を取ったこともあり、それぞれの説明に多くの質問があった。下見済みの展望場所にも上り、相倉集落全体の眺望も参加者には魅力的だったと思われる。城端地区に下りる道沿いの展望台に立ち寄り、散居村の眺望を紹介した。

  福野高校・巖浄閣(旧富山県立農学校、1903 明治36 年、設計:藤井助之丞)では、明治時代の大工による匠の技と、移築までして保存に努めた地元の熱意に参加者は感心していた。

  昼食後に砺波市を経て高岡市の清水町旧配水塔(1931 昭和6 年、設計者不詳)に向かった。市の水道局の方が二人、待って頂いていて、通常は見られない配水塔の上部まで上ることができた。私も初めてこの鉄骨造部分を見学できたことに大変満足した。ドイツ表現主義のペルツィヒの給水塔のデザインに影響されたと思われるRC造の上部に、高岡固有の銅板葺きの水槽部分を冠した特徴的な意匠にみなさんも驚いておられた様子である。

  続いて、加賀藩前田家建立の瑞龍寺・仏殿(1659)・法堂(1655)・山門(1820)を訪問した。事前にお願いしていた通り、副住職に直々に案内して頂き、見事な解説の最後には大きな拍手が起こった。私は、この瑞龍寺の配置について、高岡の築城や霊峰二上山との位置関係に関して風水による占地が行われただけではなく、立山連峰の眺望も考慮されているはずであると思っていたが、そのこともこの見学で論証された。

  次に、老朽化を理由に高岡市が取り壊しを表明している高岡本丸会館本館(1934 昭和9 年、設計:矢田茂、清水組)を訪問した。市の管財用地課の二名の方が待って頂いていた。全体の構成だけでなく、ペレを思わせるような内部のRC造の梁の意匠や、木部インテリア、天井の漆喰の鏝絵などを解説すると、用途を工夫して保存活用できないものかという感想があちこちから聞こえてきた。

  最後に重伝建地区の山町筋に向かった。富山銀行本店(旧高岡共立銀行本店1915 大正4 年、設計:田辺淳吉・辰野金吾、清水組)では、銀行の幹部の方など数名が待って頂いていた。銀行のセキュリティを考えると、竣工当時の意匠を残すいくつかの部屋を案内して頂いたことに参加者一同、感謝しておられたようである。

  高岡のかなりの部分を呑み込んだ明治33年の大火の直後に、土蔵造りで建てられた菅野家では、黒漆喰と煉瓦隔壁を特徴とする重厚な外観と最高級の素材を使った内部の造作が、今日まで使われながら受け継がれてきたことにみなさんも驚いていたようである。

  タイトな一日ではあったが、万葉の時代に始まり中世を経て瑞龍寺や勝興寺などの近世に受け継がれてきた富山県の建築の歴史を、現代にもつながる近代の貴重な作品の魅力とともに、堪能して頂いたのではないかと思っている。