日本建築学会北陸支部広報誌 Ah!38号
学生シリーズ(富山) テーマ:「東日本大震災」

私にとっての3.11

尾田 かほる
(富山大学芸術文化学部芸術文化学科造形建築科学コース4年)


写真1 地震直後の輪島市の様子
(2007年3月25日)



写真2 女川町の様子
(2011年8月11日)


 2011年3月11日。丁度私は就職活動で金沢の会社の説明会に参加していました。その会場でも誰もが揺れを感じ取れるほどだったので北陸のどこかが震源となった地震なのだろうとその時は思いました。家に帰ってテレビを点け、流れてくる映像を見てやっと事の重大さを知り、それと同時に私自身が経験した震災の記憶も蘇りました。

  私は石川県輪島市の出身です。漆器と漁業の2大産業が支える田舎町。これまで北陸地方は地震発生回数が少なく安全であると言われていました。そんな中、高校2年の春休み中であった2007年3月25日に能登半島地震は起きました。マグニチュード6.9、最大震度6強の大地震。私は、自宅の2階で母と話をしている最中に揺れに遭遇し、これまで感じたことのない揺れに、母と抱き合い、建具に掴まるのが精一杯の状態でした。一旦揺れが落ち着くと、親戚や友人の安全確認を必死でした記憶があります。また、テレビを点けるとどの局もこの事件を取り上げ、救急車の音が町中を駆け巡っていたのもよく覚えています。写真1は私の近所の住宅です。私の住宅は築年数が少ないからか(はたまた地盤がよかったのか)外的損傷は見られなかったのですが、近所はこの写真のように全壊、半壊したものが多くありました。

  それから1週間ほどたった頃に、震源地である輪島市門前町へゴミや瓦礫を拾いに行くボランティア活動に参加しました。その地域は中心地より被害が大きく目を覆いたくなるほどだったのですが、何より驚いたのはそこに住む人たちの明るさと逞しさでした。家を失ったお婆ちゃんやお爺ちゃんが、ゴミを拾っている私たち学生に「ありがとう、ありがとう」と声を掛けてくれる姿が印象的でした。

  このような体験があるからでしょうか。今回の震災について「何かしなくては」という思いで卒業設計のテーマに選びました。しかし、連日流れるニュースや未曾有の被害(特に津波による被害)を見て「私にできることなどあるのだろうか、」と悩むことも多々ありました。そんな中、8月11日、偶然にも丁度震災から5カ月経った日に卒業設計のための現地調査として宮城県女川町に行ってきました。女川町は津波により海岸や河口付近はほぼ壊滅した状態でした(写真2参照)。しかし、やはり驚いたのはそこで暮らす人の明るさと逞しさでした。高台にある女川運動公園が避難所となっていたのですが、たくさんのボランティアの方、食糧、物資を運ぶ車が常に行き交い、何より誰もが笑顔でした。窮地に立たされてからの人間の強さというのでしょうか、門前町の時と同様にひしひしと感じました。

  仙台駅へ帰る途中のバスの中で花火が見えました。現地に行くまでは、自信のなさからテーマを変えることになるかもしれないと思っていた私でしたが、その花火を見たときに、やはり「何かしなくては、何かしたい」という使命感のような思いが生まれました。安全なまちづくり、何よりそこに住む人が笑顔でいられるようなものになるように。思い悩むときにはバスから見えた花火と、その時の気持ちを思い出しながらいま卒業設計に励んでいます。