日本建築学会北陸支部広報誌 Ah!38号
シリーズ「隠れた建築」〜石川〜

新家家主屋および鴻玉荘


山崎 幹泰
(金沢工業大学環境・建築学部建築系 准教授)


図1 主屋正面


図2 主屋二階座敷


図3 鴻玉荘正面


図4 鴻玉荘一階座敷

加賀市に本社を置く製造業・大同工業(株)の創業家・新家家が所有していた近代和風住宅が、加賀市大聖寺関町にある。同家は山中温泉で知られる山中町の出身であるが、会社に近い大聖寺にもかつて本宅を構えていた。大正頃と見られる料亭建築を改築した主屋、戦後まもなく建てられた離れ座敷・鴻玉荘を中心に、茶室・龍崖庵と庭園、石倉、裏門などが配置されている。

  主屋は木造二階建て、入母屋造妻入り赤瓦葺き。正面中央に玄関を設け、玄関屋根も入母屋造とする。一階は中廊下型の間取りで、右手に手前から6畳、8畳、8畳の和室三室と縁側が続き、奥の8畳に床の間を設けて座敷とする。左手は手前に台所、階段を挟んで奥に4畳半の和室、その奥に廊下を延ばして階段、便所、納戸、裏玄関などを設ける。二階は、和室5室を配し、L字型の廊下と縁側で二つの階段をつなぐ。正面側に、ともに床の間付の8畳間と6畳間を並べ、その北側に縁側、8畳間の南に6畳間と床の間付の6畳間、廊下を挟んで床の間付の6畳間を配置する。各部屋に床の間を設けること、部屋境を襖にせず、壁で仕切って独立性を保っていること、軸部を漆塗りとし、欄間障子や平書院の障子の桟に工夫を凝らした数寄屋風の造りとしていることなど、料亭建築の特徴をよく残している。正面構えは一階は格子戸、二階はガラス入り雨戸。建築当初の料亭としては、一階を経営者の居住及び事務スペース、二階を客室としていたものと考えられる。なお、羽二重織物で栄えた大聖寺には、戦前まで多くの料亭があったとされるが、現存が確認できるものはこの建物一棟のみである。

  離れ座敷・鴻玉荘は木造二階建て、三方に入母屋の妻を見せる複雑な屋根を掛ける。赤瓦葺き、一部銅板葺きとする。主屋とは軸をずらしてやや東北方向に向けて建ち、切妻屋根を突き出した玄関の西側から入る。内部は玄関から続く、廊下と階段からなる螺旋状の通路を中心に、床高を違えた和室を1・2階とも3室設ける。1階は北西に3畳の前室、南西に床の間付の8畳と縁側、南東に床の間付の8畳と土間を設け、ガラス戸越しに背後の山裾に広がる庭園を眺められるようにする。南西の8畳間は朱壁、ほかは薄緑色の聚楽壁とする。土間から降ると便所があり、水車風の飾りを付けた窓や、丸太の木口を用いた飛び石などが見られる。2階は北西に3畳の前室、南西に床の間付の6畳、東側に床の間付の10畳と二辺に縁側を設ける。前室と6畳は群青壁、10畳を薄緑色の聚楽壁とする。各部屋とも檜を中心に良質の材を用い、床構えや障子の桟、彫刻欄間、天井の仕上げから、照明のシェード、襖の引手にいたるまで、部屋ごとに異なる工夫を凝らしている。また、各部屋を螺旋型の通路で結ぶ動線計画も巧みで、通路を進むたびに異なる趣味の空間が現れ、その展開が大変面白い。戦後職にあぶれた職人達の失業補償のために、この建築を建てたとも伝えられ、戦時中の奢侈抑制への反発のごとく、当時の高度な伝統建築技術を過剰なまでに詰め込んだ、数寄屋建築の粋とも言えよう。同家の客座敷として、多くの政治家や財界人を迎えたと伝えられている。

  新家家主屋は、大聖寺の料亭文化を伝える建物として、鴻玉荘は戦後直後の数寄屋建築の高い技術力を伝える建物として、当地ではほかに例を見ない建物であり、庭園、茶室、付属建物などが一体として残されている点が、特に高く評価できる。 なお、これらの建物は今年、新家家から加賀市に寄贈された。今後修復が行われ、市の文化施設として活用される予定であり、公開が待たれる。