日本建築学会北陸支部広報誌 Ah!39号
シリーズ「隠れた建築」〜福井〜

江戸後期の寺社建築の粋
岡太・大瀧神社(本殿・拝殿)



坂田 守史
((株)デザインスタジオ・ビネン)


図1 本殿・拝殿


図2 白山信仰拠点地と太陽

越前和紙の産地で知られる福井県越前市(旧今立町)に、岡太(おかもと)神社・大瀧(おおたき)神社がある。緑豊かな山(権現山)を背にした境内には杉の大木が並び、荘厳な雰囲気を醸し出している。その中に一際目をみはる本殿・拝殿がある。(図-1)

なぜ、岡太神社と大瀧神社の二社が並列で呼ばれるかは、その歴史を紐解いていくと理解できる。

岡太神社は、日本で唯一“紙”の神様を祀る神社で、1500年の歴史を誇る神社であり、紙祖神である「川上御前」を祀る1300年以上続く祭が今も継承されている。

そして、大瀧神社は、かつては白山信仰の拠点の神宮寺「大滝寺」であり、越の大徳と言われた泰澄大師が権現山の麓に建立した。現在でも大瀧神社境内には観音堂があり、木造十一面観音坐像が安置されている。

この権現山は、白山から見ると冬至の日の入の方角に位置し、その手前には禅定道の一つである福井県勝山市の平泉寺もある。また、夏至の日の入の方角には石川県の那谷寺があるなど、白山を中心とした瑠璃光浄土と西方浄土の関係が見え、信仰の重要な場所であることを知れる。(図-2※1)

元々、岡太神社は別の場所にあったが、延元2年(1337)に足利軍に社殿を焼かれたため、大瀧神社の摂社として境内に祀られるようになり、現在の岡太・大瀧神社となっている。

岡太神社は大瀧神社の摂社であるが、境内の鳥居や本殿・拝殿には二社の名前が並列に記載され、地元でも岡太・大瀧神社と呼ぶのは、紙の神と白山信仰が交差する歴史的にも場所的にも重要な神社であることを物語っている。

そして、その歴史性・場所性を讚えるように、勇壮な本殿・拝殿がある。この本殿・拝殿は、江戸後期の天保12年(1841)から天保14年(1843)までの3カ年をかけて造営された。

大工は、曹洞宗の道元禅師が宋国より帰朝のとき随伴した建築技師玄盛繁を祖とする「志比大工」の棟梁で、曹洞宗大本山永平寺の唐門を手掛けた大久保勘左衛門である。

当時、社殿造営の工事請負に関して、地元大工の連名で自分たちが請け負えるよう請負願がだされたそうだが、却下され、大久保勘左衛門に任せたのも、地域の人の神社に対する思いの深さを感じさせる。そして、大久保勘左衛門はそれに応えるかのように、全国的にも珍しい本殿・拝殿の屋根をつなげ一棟とするダイナミックな造りにしている。

一間社流造の本殿とその前面の入母屋造、妻入りの拝殿からなり、本殿屋根正面上部に入母屋造、向拝付きの小屋根、向拝屋根に軒唐破風を付け、拝殿も向拝屋根に軒唐破風を付け、折り重なる屋根をさらに特長づけている。本殿と拝殿の床の高低差は約2m、背の権現山から流れるような屋根の形状が、この場所の象徴的な意味合いをより強めている。

その場所でしか生まれ出ない建築の在り方というものを、常にこの神社は強く感じさせる。

 
※ 1:図-2は、越前市の渡邊光一先生がまとめたものを筆者が図形化したものである。