日本建築学会北陸支部広報誌 Ah!46号

■かくれた建築シリーズ(石川)

主計町の茶房「土家」

山崎 幹泰
(金沢工業大学環境・建築学部建築デザイン学科 准教授)



写真1 土家正面


写真2 2階前座敷


写真3 小座敷


 金沢市の重伝建地区の一つ、主計町は浅野川に面して茶屋建築が建ち並ぶ。その町並みの一角に、空き家となっていた茶屋建築を改修した、落ち着いた風情のある「土家」(旧つちや・市指定)という喫茶店がある。大正2年に建てられた茶屋である。

 木造二階建てで、間口は二間半。一階正面は間口一間半の出格子窓と一間の玄関からなり、格子はキムスコの細格子、腰壁には薄青色の笏谷石を用いる。格子の上に桟瓦葺の庇をかけ、庇の上は小壁。二階の雨戸は、腰部の鴨居敷居で分けられたガラス建具になっている。二階の階高は高く、縁庇のすぐ上には、大屋根の短い軒がかかる。現在の桟瓦葺きの大屋根は、当初石置き板葺屋根であったと思われる。背面は下見板張りで、台所に出格子窓、二階に間口一杯のガラス窓を設ける。

 内部は一列三段型の間取りで、正面向かって右手を玄関とする。奥行き一間の三和土があり、板の間へあがると、すぐに箱階段状に作られた弁柄の階段がまっすぐに昇り、階段の奥にさらに板の間が続く。正面向かって左手には、前部から店の間、茶の間、奥の間の三室。店の間は三畳、北側はキムスコの出格子窓で、その内側に六段、スライド式のガラス小窓が組み込まれている。ここではかつて、芸妓の着替えや化粧が行われた。茶の間は六畳で、板の間との境を開放する。壁には三味線棚があり、ここには大和風呂が置かれ、帳場として使われていた。奥の間は四畳半で、東側の壁面に釣床の痕跡が残るが、現在はカウンター席に改造されている。女将の寝室であり、仏壇も備えられていた。店の間と茶の間は根太天井で、奥の間は竿縁天井、柱や造作材には紅黒い漆掛けの光沢がある。階段より奥の板の間には、床下に土間と井戸の痕跡が残るが、現在は便所が設けられ、裏口へと通じる。

 二階が本来の客座敷であり、前部から前座敷、中の間、後部に並列した小座敷が並んでいる。前座敷は八畳で最も広い部屋であり、西面に本床と付書院を備える。床脇には地板と地袋、境の壁には丸い下地窓を開ける。北側の縁の天井は小丸太と角の垂木が交互に並んでおり、手摺とともによく旧態をとどめている。付書院の障子や手摺の桟は、茶屋らしい繊細な造りである。中の間は五畳で、階段からの前後の座敷への動線の役割を持つが、ここで舞を踊ることもあったという。後部の座敷は、東側の奥の間は六畳に半間奥行きの床の間が張り出した体裁である。西側の小間は四畳に半間奥行きの吊床がついている。ともに狭い部屋ながら、簡略化した床を設けることで床面積を確保しつつ、客の人数に合わせて二室を使い分けていたものと考えられる。これら奥の二室には、縁の代わりに出窓が付けられ、手摺も設けられている。

 二階中の間の押入れの中には急な階段が設けられており、上がると屋根裏のアマがある。かつては芸妓の寝場所であった。ただし、昭和40年代の繁盛期には、一階もアマも客座敷として使ったこともあったと伝えられる。

 典型的な茶屋形式の建築であるが、ひがし茶屋街の茶屋建築と比較すると、間口が狭く、かつ中庭や付属屋を持たず主屋のみである点に特徴がある。主計町は浅野川岸の段丘面に位置し、表通りと裏通りの間隔が狭いことから、建物が表裏両通りに面することとなり、ひがしのように背割り型の敷地にならなかった。そのため、表裏から採光・換気が可能となり、中庭の必要がなかった。また、二階の動線を最小限とし、間口三間半を二室に分け、ともに床を備えた小座敷とする点には、間口の狭さを克服する工夫が見られる。それでも、芸妓の生活空間の確保は困難であったことから、アマも活用されたのであろう。

 ひがし茶屋街も主計町も、外観は茶屋の姿を守りつつも、内部は大きく手を加えている建物が多い。その点、「土家」はあまり手が加わっておらず、かつての茶屋の華やかさをそのまま現代に伝える、貴重な空間である