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Vol.50 - 2015/04/01
《from 石川支所》
いま甦る!玉泉院丸 

山岸邦彰/金沢工業大学環境・建築学部建築学科 准教授

3月6日は啓蟄。二十四節季の一つで、冬眠していた虫が這い出ると言われる日。その翌日に長い冬眠から目覚める庭園が公開された。金沢城の玉泉院丸の庭園である。ご存知の通り金沢城は加賀前田家の居城。隣接された兼六園は日本三大庭園として有名である。しかし、玉泉院丸の庭園はこの兼六園ができる40年ほど前に城内にできた庭園であり、135年ぶりに復元された。この度、兼六園管理事務所の猿田所長のご厚意で開園前の庭園を案内して頂いた。ここでは庭園の復元とここに新設される休憩場「玉泉庵」を紹介したい。(図1)


図1 玉泉院丸全景イメージ

玉泉院丸は本丸の西の一段下がった場所に位置しており、2代目前田利長の正室の玉泉院の屋敷があったことからそう呼ばれるようになった。庭園は、玉泉院の没後三代目利常が寛永11年(1624年)に構築したのが最初である。その後、幾多の修築を経て、明治5年(1872年)に陸軍省の管轄後、明治13年(1880)まで存在していた。その後、庭石は兼六園に移転し、庭園の起伏は平滑となり馬場になり、戦後は県体育館が建てられた。当時の写真や詳細な絵図が残されておらず、庭園の復元には県体育館の解体後の平成21年(2009年)から実施された発掘調査の結果を待つしかなかった。しかし、当時の植栽の状況は発掘調査では分からず、兼六園を参考にするしかなかったという。ではどのような庭園だったのであろうか。

泉水(池)と築山があり、泉水には大小3個の中島を浮かべ、周囲に回遊路を設けたこの庭園は、典型的な池泉回遊式大名庭園である。庭園には加賀、能登の領内から取り寄せた植木、庭石を配している。また、東には本丸、二の丸の石垣を望み、その石垣に滝を設けるなど、金沢独特の趣向が伺える。今回の復元に当たっては金沢中の庭師が手掛けたと聞き、この復元に賭けたエネルギーはただならぬものを感じた。(写真1)


写真1 色紙短冊積石垣

そして、休憩しながら、また呈茶を受けながら庭園を望める場所がある。休憩所、案内所、そして和室を備えた玉泉庵である。かつてはこの場所には露地役所、すなわち庭の管理事務所のようなものがあったが、今回来園者のために新たに設置された。外観は土壁に?葺き。一見、よくある和様建築に見える。しかし、早速入って先ず驚くのが開放的な大窓である。和風の佇まいと思いきや4〜5mもあるワイドフロンテージが庭園の額縁となっている。足元は赤戸室と青戸室をあしらった気品ある石床になっている。続いて、和室に上がってみると杉の香りが迎えてくれる。そして、目を庭園に向けると、またしても大窓が現れる。無柱が建築の中に居たことを忘れさせてくれる。紙面の都合で詳細を伝えられないのが残念であるが、新たな観光名所ができたといってもよいであろう。(写真2、3、4)


写真2 玉泉庵全景


写真3 玉泉庵座敷より庭園を望む


写真4 ぬれ縁

藩政を終えた金沢城は、陸軍省の恰好の舞台となり、その姿が大きく変容した。ここで生まれた第九師団が旅順攻撃で活躍と犠牲を払ったのは広く知られるところである。戦後は平成8年(1996年)まで金沢大学のキャンパスとして利用された後、金沢城公園として現在に至る。藩政時代の栄華が約150年の眠りから覚め、這い出でようとしている。




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