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Vol.53 - 2016/01/06
《from 福井支所》
福井市グリフィス記念館
ー明治の洋風建築復元とまちづくりー
 

堀内 正人福井市都市戦略部 


□グリフィスとは
 ウィリアム・エリオット・グリフィスは、明治4(1871)年に福井藩が欧米の先進技術や知識を学ぶために招聘した米国人教師です。藩校明新館で理化学を教え、日本最初の米国式理科実験室を作るなど、日本の教育の近代化に尽力しました。帰国後は、『The Mikado’s Empire(皇国)』などでアメリカ社会に日本を広く紹介し、福井市とニューブランズウィック市との国際交流の礎にもなっています。

□グリフィス記念館とは
 福井市は、次の時代に相応しいまちづくりの指針となる「県都デザイン戦略」を策定し、それに基づく各事業を進めながら県都としての魅力を高めているところです。グリフィス記念館(以下、「記念館」)整備はこれに基づく歴史回廊形成事業の一つです。
記念館は、高級料亭街としての歴史と風情が感じられる福井市中央3丁目「浜町界隈」の街角に位置し、福井駅から足羽山や足羽川周辺に向う歴史回廊の中間にあたることから、まちなか観光、まちなか散策の新たな拠点としても期待されています。

□グリフィス館の特徴
 明治4年に福井藩ではグリフィスの居宅として、現在の足羽川幸橋北詰にベランダ・コロニアル様式の洋風居宅を建てましたが、残念ながら焼失してしまいました。グリフィス館は、写真に基づき外観を復元整備したものです。(写真1)


写真1 当時のグリフィス居宅(向って左側)

 グリフィス館の特徴は、全体形としてはベランダが南側外壁の台形凸型に呼応して張り出し、それが左右非対称となっていることです。また細部の意匠では、ベランダに面して、その外壁には海鼠壁、手摺には花弁文様の木彫り装飾を施した中抜きの襷掛け、雲形の幕板など日本建築の意匠が盛り込まれた擬洋風建築でありながら、和と洋の意匠が違和感なく溶け込んでいます。屋根は越前桟瓦葺きですが、寄棟で軒の出も小さくすることで西洋建築らしさを創り出しています。軒先から外壁までは歯飾り(化粧垂木にも見えます)を持つ軒蛇腹、中間部は桟瓦一段葺きの胴蛇腹で、共に漆喰塗りとしています。(写真2)


写真2 グリフィス館外観(敷地南東角から)

 この時代の擬洋風建築が独創性に富んだ意匠を持つものも多い中で、抑制の効いた細部意匠と小規模ながらも整ったプロポーションを持つグリフィス館は特筆すべき存在であると思います。復元整備にあたっては、設計時だけでなく施工段階においても細部寸法の検討や部材の納まり取合い等に注意を払い、敷地全体での質感や風合いの再現も含めた整備に心掛けました。
 内部展示では、小学生から大人まで興味を持って楽しみながらグリフィスを知っていただくため、動く肖像写真など映像を中心としたものにしています。グリフィスの功績を中心に当時活躍した郷土の偉人や「浜町界隈」の変遷、そしてグリフィスと日下部太郎との縁に始まる福井市とニューブランズウィック市との国際交流などを紹介しています。(写真3)


写真3 グリフィス館内部展示(グリフィスと日下部の動く肖像写真)

□おもてなし館と広場
 県都デザイン戦略では、質の高い一貫性のある都市デザインを担保するため、整備事業に際しては、専門家を含む第三者機関による「デザイン調整」を行うこととしています。記念館も、複数回にわたる「デザイン調整」会議を経ています。記念館はまちなか散策の新たな拠点であることから、「デザイン調整」会議においても、「街角のポケットパーク」というコンセプトに相応しい広場のデザインが模索されました。その中で、福井駅から歩いてきた時に最初に視界に飛び込む敷地東側にグリフィス館を配置し、その南東には日時計を置きそれを中心に舗装をデザインしました。周囲には植栽やフェンスなどを設けずに、自然な雰囲気で利用していただけるようにしました。おもてなし館もこのコンセプトに基づき開放的な空間とし、落ちついたデザインに徹しています。(写真4)


写真4 グリフィス記念館(中央:グリフィス館、右:日時計、左:おもてなし館)

 末尾となりますが、この事業を進めるにあたってたいへん多くの方々にお力添えやご協力をいただきました。この場をお借りして感謝申し上げます。



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