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Vol.53 - 2016/01/06
《from 石川支所》
犀川が生んだ建築家谷口吉郎の旧家 

山岸 邦彰/金沢工業大学環境・建築学部建築学科 准教授


 「そうだったのか!」一見するとちょっと変わった色の荘厳な蔵(写真1)があるなと、普段は特に気を止めることもなく通過していた一画の建物群が、建築家故谷口吉郎の旧家だったとは(写真2・3)。


写真1 道路に面して建つ蔵


写真2 谷口吉郎旧家1


写真3 谷口吉郎旧家2

 谷口吉郎は東宮御所をはじめ、東京国立博物館東洋館や帝国劇場などを設計したわが国を代表する建築家である。平成27年4月、この土地等を谷口吉郎の子である谷口吉生が金沢市に寄贈された。谷口吉生は、ニューヨーク近代美術館をはじめ、東京都葛西臨海水族館やアジア協会テキサスセンターなどを設計した、言わずと知れた世界的な建築家である。

 寄贈を受けた金沢市は、早速この土地・建物の有効活用を考え平成27年8月に基本計画を策定した。谷口父子の建築資料を収集・保存し、金沢市名誉市民第1号でもある谷口吉郎氏を称えるだけではなく、多くの来訪者が集い、建築やまちづくりに思いを馳せる建築の聖地となる予定である。

 旧家は犀川沿いの段丘上にあり、東方に目をやるとたおやかな医王山を仰ぎ(写真4)、目下には片町が広がる。片町から南西に伸び、リベットを駆使した大正13年(1924年)竣工の犀川大橋を望むと自然と昔にタイムスリップすることができる。そう、ここは寺町であり、その名のごとく藩政期(江戸時代)から続く伝統建築の寺が林立し、現代建築に目をつむれば過去の時空を共有することができる地域である。


写真4 犀川・医王山・ご来光

 谷口吉郎は九谷焼の窯元の家に生まれた。生家は金沢一の繁華街である片町の一画にあった。表通りに面して店があり、その奥に住居と庭が、その庭の奥に窯場などがあり、多くの職工が精を出していたと言う。屋号を「金陽堂」と言い「九谷谷口」の銘を名乗っていた。吉郎が小学生の頃、住まいを犀川を隔てた寺町に移し、旧第四高等学校(金沢大学の前身、以下旧四高)を卒業し東京帝国大学へ入学するまでの間、この写真の旧家で過ごした。吉郎の父は茶に通じ、寺町へ転居する際に加賀藩家老の横山家にあった茶室「一種庵」を移築している。この「一種庵」は現存し、この整備事業で移築される予定である。

 中学を卒業する頃に、建築家になることを父に告げた。窯元の長男として家督継承を期待されていたであろうが、父はあっさり承認した。このような告白もこの旧家の一室でなされたのであろうか。その数年後の旧四高3年生の秋のある日、朝から降り続いた雨が小休止した頃に、珍しくも金沢の大地が微かに揺れた。大正12年(1923)年関東地震である。その時の惨状を号外で知ることになる。このことが建築への思いを強くした。旧四高を卒業後、東京帝国大学に入学する。大学では伊藤忠太に師事し、九谷工芸由来のその才覚を伸ばしていった。しかし、吉郎は計画畑でありながら、時代はまだ震災復興の真っ只中。わが国耐震研究の第一号とも言うべき家屋耐震構造論を世に出した佐野利器の薦めにより日本大学で教鞭を取ったり、東京工業大学に就任したりするエピソードは興味深い。昭和9年(1934年)の室戸台風を契機としてわが国の耐風設計が喫緊の課題となっていた頃、建築に作用する風圧力に関する論文を建築学会に複数発表し、後に工学博士となる。風洞実験の気流に犀川のせせらぎを回想したのであろうか。幼少期に専ら河川敷を遊び場としていた吉郎にとって、犀川は寺田寅彦の「茶碗の湯」であったのであろうか。

 この旧家の整備・設計にこのほど谷口吉生が担当することが決まった。吉生自身は東京生まれであるが疎開先としてこの旧家に身を置いている。平成23年(2011年)竣工した鈴木大拙館(写真5)は吉生の設計であり、現在は金沢の新名所として人気を集めている。今度はどのような作品に仕上がるのか。約5mの高低差のある敷地をどのように調理するのか。少し先だが2年後が楽しみである。


写真5 鈴木大拙館



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