2002年度北陸建築文化賞受賞(作品)02

 須坂市ふれあい館 まゆぐら

 須坂市長・関建築+まち研究室・
  まつなが建設梶E給燗c工業所

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須坂市のまちづくり
  須坂市は、1998年に冬季オリンピックを開催した長野市の東に隣接している。南に松代町、北に小布施町がある。江戸時代初期に須坂藩堀家の館町として成立し、現在は面積約150平方キロメートル、人口約5万5千人で、善光寺平を流れる千曲川河東の中心地である。明治時代初期から昭和時代初期にかけては養蚕・製糸の町として栄えていた。町なかには往時の名残をとどめる豪商の館「田中本家」、旧牧新七家をはじめとする豪壮な屋敷や商家などが点在しており、「蔵の街」をテーマとしたまちづくりが推進されている。市行政では、平成7年から「文化を伝える街」を基本方針とした街なみ環境整備事業に取り組んでおり、民間でも「信州須坂町並みの会」というまちづくり団体が15年以上に渡って熱心に活動を続けている。

繭蔵の曳屋移転
  都市計画道路(新国道406号)交差点予定地付近に残されていた明治時代末期の繭蔵は、梁間4間・桁行10間の木造3階建であった。そもそもの機能を停止されてから民間企業の倉庫として放置されたままかなりの時間を経過しており、すでに廃屋化していた。かつて前面道路の拡幅が行われた際に一部を斜めに削られており、蔵の平面形はやや変形していた。屋根は比較的傷んでいなかったが、外壁は漆喰が剥がれたり窓回りが崩れたりしており、土台・柱脚・貫には朽ちている部分が見られた。内部は一部改造されていたが、骨組みはほぼ建築当時のままだった。都市計画道路を実現するためにはこの蔵も取り壊さなければならないが、保存を希望する声も上がった。検討の結果、市行政はこの蔵を別の場所に移転することによって保存し、街なみ環境整備事業における生活環境施設として再生させることとした。移転の手法には解体運搬と曳屋があるが、そのままの姿で曳屋(姿曳)をして再生することに決まった。移動距離約150メートル、高低差約4.5メートルに加えて回転もしなければならない。これだけ大型の蔵をしかもこれだけ長く曳くのは全国でも例のない難工事である。熟練の職人たちによってゆっくりと蔵は動いた。新しい場所に落ち着くまで約2ヶ月を要したが、町を横切って動いていく姿は壮観で、曳屋技術継承のためにも貴重な工事となった。

木造3階建の改修
  曳屋移転が終了すると、生活環境施設(休憩所・展示ギャラリー等の用途)として利活用するための改修が行われた。繭蔵の架構は素朴且つ合理的な形式で、往時の職人の技と心を示していた。しかし階高は低く圧迫感のあるもので、再生して新しい用途へ転用するに当たっては、倉庫イメージを払拭する空間に変換する必要があった。そこで一部の床を抜いてスキップフロア風のダイナミックな吹抜空間を創出した。法規の適用によって構造の補強は不可避だったが、建築当初の建造美をできるだけ尊重することを心掛けた。
  繭蔵は時代を超えて生き返り、まちづくりの拠点として多くの人々が集う場所になっている。


曳屋移転の記録
 既存の建物を取り壊して新しい建物を建てるというスクラップアンドビルド的な方法においては、曳屋工事は発生しない。最近は小規模のものを除けば、曳屋工事を見ることは稀になった。しかし、曳屋は古い建物を移転して保存再生したり基礎の改修をしたりする場合には欠かせない工事である。建物の転倒などの可能性もある危険な工事でもある。

−準備−
壁の一部をくりぬいて柱脚のやや上部を梁間方向・桁行方向に角材でつないで固定する。
各階の柱と梁は仮の筋交を入れて補強する。
移動する方向の壁下に、枕木を重ねて水平を調整したレール用の角材を二例並べる。
建物を土台ごと浮かせて、柱底にあたるレールの上に細長く厚い鉄板を敷き、数本の鉄棒をコロにして、滑り止めの砂をまく。

−移動−
直線移動・・・
梁間方向に渡した角材にワイヤをかけ、移動する方向にセットしたウィンチで巻いていく。

回転移動・・・レールの上に移動しない軸点をきめ、回転する方向に斜めにレールを出してワイヤ方向を変えながら曳いていく。

垂直移動・・・レールをジャッキで支持しながら、枕木の段数を増減することによって建物の高さを上下する。