建築計画ニュース039
2000年度春季学術研究会(仙台)報告特集号

日 本 建 築 学 会

建築計画委員会


2000年度建築計画委員会春季学術研究会報告

「施設型の可能性を開く−情報時代における「施設」の意味−」

                                                小野田 泰明(東北大学)


菅野 
おはようございます。建築学会の建築計画委員会の春季学術研究協議会も2日間の日程の内1日目の日程を終えまして、2日目の日程である、パネルディスカッションを2部構成で開催いたします。どうぞ最後まで御参加頂きますよう宜しくお願い致します。
それでは、最初に建築計画委員長であらせられます。大阪大学の柏原先生に御挨拶頂ければと思います。

柏原
ご紹介いただきました柏原でございます。台風が接近する中でこのような沢山御参加いただきまして誠に有り難うございます。建築計画委員会では、春季学術研究会というのは大変重要な会でありまして、特に若い方に過去の流れを知って頂きたいと思いまして、それで、少し調べて参りました。実は今回が20回だということがわかりました。21世紀に入ったときに21回という流れで捉えられるなと思います。昨年は倉敷を会場と致しまして「時代の流れに生き続ける建築」ということで古いストックの問題というものを団地の建て替えと病院のリニューアル事例から見ました今回はそういう過去の流れとは反対にこれからのことを考えようと思っております。トフラーが第3の波を書いて話題になったのが20年前であります。農業革命、産業革命それで情報革命が来るということを20年前に指摘していたのですが、今まさに現実の情報革命が顕れてきていると。今日の情報のスピードというのは大変な波で、携帯電話が5000万台を越えるのに数年で突破し、これからどうなるのかわからない。ところが建築というのは非常にハードでしかもこれからは寿命を長くする必要があるわけです。このようにそうした非常に大きな変化のあるものをしっかりとして長持ちする空間の中でどう支えていくかは、建築の計画にとっても大変重要な事であると認識しております。そのような認識の元でその最先端にあります宮城県立図書館とせんだいメディアテークを見学し、その設計者による討論とそういう分野の最先端の専門家によるパネルディスカッションをお聞きすることを企画させていただいたわけであります。このようなことで昨日の見学会と本日のパネルディスカッション全て、いろんな関係者の方の大変な御助力を御賛同頂いているわけですが、この場をお借りしまして感謝申し上げたいと思います。特にこの企画に関しましては東北大学の菅野先生それと小野田先生はじめ多くの方の沢山の御賛同を頂いて御協力を頂き企画をしていただいたので感謝をさせていただきます。

阿部
それでは対談 「図書館情報施設をめぐって」をはじめさせていただきます。私司会を努めさせていただきます阿部と申します。


原でございます。図書館ということで、2つくらい何か思いがあったと思います。
一つは、雑誌にも書いたのですが、私が育った時代というのは戦後の貧しい時代で本というのは殆ど無かったわけです。学校に行くときにも教科書は無かった。戦時中から残っている教科書が幾つかあったのですが、それは読んではいけない場所を黒い墨で潰したようなしろものです。私は焼け出されて川崎から飯田の山の中に逃げていくわけですがその時にもちろん本は一冊もないし、あるとすれば図書館にあるという状態です。それから特に中学校、高校の時代私は住む家もないような状態で図書館に通ってい時代を過ごしてきたわけでして、図書館に対する非常な思い入れが、何か自分の生活や未来とかを支えてくれる全て山の中の非常に小さい建物で、本もあんまりないのですが、何か社会の中心のようなイメージがあったわけです。
もう一つの思いというのは、今から10年ほど前の1988年にケルンでメディアパークというメディアのセンターをつくる20ha位のコンペティションがあって参加したのですが、その時にメディアというものは一体どういうものかということを考えたわけです。それから、1994年にマジョロカ島のパークビットというと所でやはりコンペティションがあってその時にも立ち会いました。それからこれはもう宮城県図書館が建った後なのですが、去年アルゼンチンのコルドバというところでワークショップがありまして、その時のテーマがテレポートというのでそれにも参加しました。3番目の例は時間的に私の設計した時の思いとは、少し違いますが、いろんなところで多くの人々と、会話をしたり、プロジェクトを見たりする機会があったので、図書館が今後恐らく大きく変質していくだろうということを思いながら実際に図書館をつくったわけです。つまり、何か懐かしい、形式も整わない図書館への思いと、かくあるべきとしての存在ではなく、むしろ可能体としてこれからどうなっていくんだろうという新しく、見えない世界への思いの両方から図書館を設計したと言えるのではないかと思います。
正直に言いますと、先程3つの(ケルン、マジョロカ、コルトバ)例でメディアのことを申し上げたのですが、実はメディアと建築というのは、今日の主要なテーマではないかと思います。実は電話や電灯が出来たころに、超高層、ミースのプロジェクト、1920年代のプロジェクトが出来てくる。それらの技術は建築の内容を根本から変えるような、技術的な成果としてあったわけです。例えば有名な教科書に載っているミースの1919年と1921年のプロジェクトは、街に電気がつきはじめる時に作り上げられているわけです。ミースの未来への予知力というのは素晴らしく、電気がこうこうと付いている様に見えるあの、実は街に電気がつきはじめたばっかりの時に描かれたものなのです。ところが、メディアというものが建築自体を変えるかということを考えますと、このコンピューターを始めとする様々な技術は建築を変えるような力をどうも直接的には持っていない。水道管みたいなものが一本入れば、古い建物でも直ちに今日的な建物として機能するようになる。そういう不思議な力を持っているのです。私自身メディアによって建築自体が根本的に変わるとか、そういう部分を何とか読み取ろうと10年間位にわたりいろんな所で皆とワークショップなりやりながら、誰かがそれに気がつくのではないかと私は注意して見てきたのですが、どうも、はっきり見えないのではないかと思います。こういった見えない状態とに対してどういうふうに備えていけばよいのかに対する回答の一つが、宮城県立図書館なわけです。
 一つには、古い図書館つまりまず社会のある核になるようなものをというのが第一にありました。
二つ目のこれからどうなるかという可能体としての図書館は見えてないわけでして、私は2種類の方法をとりました。一つは多様な部屋というか場所というものを用意してみようと考えました。本来図書館にあるべきとは思えないような庭、具体的には地形広場と呼んでいる階段状の広場が典型なんです。なんであういう舞台が必要なのか、大いに疑問だと思うのですが、そうした可能性のあるいろんなスペースを作っておこうと考えました。次ですが、あらゆるところで増築が出来るように、特に3、4Fの2階建ての書庫になっているところは、全面的に駐車場の方に延ばせて、いろんなものがそこで作ることが出来る余地を残すということです。いろんな建築スタイルがある中で私がモール形式の直線的なプランを採用したというのは、地形のこともありましたけれども、そうした拡張性が高いということもあったわけです。書庫がカーテンウォールになっているのはおかしいじゃないかと思われる人もいるかもしれませんが、駐車場の上に柱を立てればどんどん増築できるというのは意義があると思います。図書館のここ何十年の変化を見ていると、情報の形というものが変わっていくだろう。本が全く無くなることはないと思いますが、インターネット等の情報のやり取りの仕方、情報の検索を考えると、情報の保管場所としての図書館の役割は疑わしい、技術の展開によっては必要とする本が世界に1冊あれば手元に届く。自分でも、レコードで手に入ることが出来ないと思っていたものが若い人がインターネットで検索すると買えるというのでじゃあ買ってみようかとやってみたら一週間後に届いたという経験もあります。図書館というのは、これからどういう機能を持ってくるのか、予測できないことに対する備え方はいろんな備え方があると思います。宮城県図書館の場合は広い敷地があったということかもしれません。

伊東
昨日御覧頂いたとおり、現場がまだ混乱したような感じで実は今日またこのシンポジウムが終わってから、役所とのオープニング事業のミーティングがあるとの状況で、メディアテークで一体何が行われ、どう使われていくのかは未だ殆どわからない状況です。こんなに、建物が完成間近に迫っているのに、どう使われるのかがわからないということは未だかってないことでして、このことがどういう意味をもっているのだろうか。このことは私自身非常に興味深い。興味深いというと非常に無責任だと思われるかもしれませんが。何か体系づけて、こういったものが新しい情報施設ではないかと言うことを出来るような立場にはないのですが、この建築に5年間以上関わって、図書館であろうがホールであろうが美術館であろうが現在公共施設として呼ばれているものに対しては、全く同じような問題があるのではないだろうか。言い換えれば、それぞれの既存のあるタイプを作っているバリアをどうやって解いていくか、ということが私の関心です。
スライドを数枚用意しておりますので、御覧頂きたいと思います。
これが、せんだいメディアテークに対して抱いている理想の姿であります。これは、恐らく何か森の中とかのイメージを抱かれるかもわかりませんが、決してあの木に似せた建築をつくろうというのではありません。このチューブと呼んでおります木の様な構造体が無限に続いていく姿を描きたかったわけです。ここにランダムな姿でスラブが積層していくという姿もあります。こういうところに、人々が集まってきて、本を読んでもいいし、寝転がってもいいし、音楽を聞いてもいいし、会議というか話しあってもいいし、そんな姿が私にとっての理想的な姿です。

これは、5年前にコンペティションの時に提出した模型の写真です。最初の絵をカットしたものです。これは、最初の理想の姿の断片であると言えます。前面のガラスしか描かれてないこの絵を見て、残り3方向がこんなに透明になるはずがない。という指的があったのですが、私はこのコンペティションの段階でも残り3方向がガラスの壁になるといったつもりは全くありません。これは切り取ったものであるとするつもりです。
これは、最近の全景なのですが、昨日御覧頂いたと思う建築は、相当違うものじゃないかと思われる方が多いと思います。最初に御見せした絵と大きなギャップがある。このギャップこそが、私にとっての設計をするという意味なのではないかと思っております。ですから、これは建築のイメージではなくて、何か人間が一緒に暮らしていく理想の姿で、それに対して現実の社会の中での建築の姿との間にどういうギャップがあるのかということです。
まず、現実の社会ではこの定禅寺通に敷地が限定されています。敷地が限定されることにより、建築が内と外という境界を持たなくてはならない。また各フロアーに様々なメディアが分化して入ってくる。更にそのフロアの間に壁が発生して部屋が生じてくる。こういった分割し、秩序立てていく行為、建築化する行為自体は、バリアフリーどころかバリアを築いていくことに他なりません。ある領域を囲いとってそこに秩序を与える他とは違う場所にしていくことが建築であるわけで、閉ざしていくことでもあるわけです。歴史始まって以来中心を与えたりヒエラルキーを与えたりすることが、建築をつくることの意味であって、これと私の理想とは全く相反するわけです。私にとって建築をつくることは嫌なことでしかないわけです。
今回せんだいメディアテークにおいてチューブと呼んでいるストラクチャーとスチールのハニカムスラブによって空間を建築化する行為がどういう意味を持っているのかを簡単に御話させていただきます。まず、内外の境界を持たなくてはならない。これはどうもいつも毎回建築を作るたびに、また閉じてしまったなと思いますし、最新のコンペティションのモデルと最近の建築の状況を比較してもその差は歴然としているわけです。断片としてのモデルの方がずっと頭の中にあるわけですが、一つの完結したものとして描こうとしたのとはだいぶ違うのではないかと思うわけです。ここでは、3つのかなり断片的な面があります。一つは定禅寺通りに面しているダブルスキンと呼んでいる2枚のガラス面です。それから屋上部分にルーバで作っている面があります。それから西側これは避難階段が集中しているのですが、壁にならざるをえなかった所で、外側にファインフロアーという足場板のようなものが並べられた面です。こういう3つの面があって残りの北面と東面は内部の機能にそう忠実なわけではないのですが、フロアー毎にそれぞれ違った内部がそのまま露出しています。断片としての建築、ヴォリュームというとことをそのまま表現しました。これが私が最初から拘っていたところなのですが、皆さんがその空間の違いを感じ取っていただければ幸いです。このスチールのハニカムを作ることによって、チューブの間が15m〜20m位の可能にしておりまして、恐らくこれはコンクリートでは出来なかったことであろうと思いますし、それからまたモデュールということがなくなったわけです。チューブの周りにいくとそのハニカムのリブの形状は放射状に、ランダムな形をしているわけです。それは、通常の建築均質空間で成されているような壁の作られ方を規定しています。チューブの間を縫うような形でしか壁が設けられません。全体に通常の公共建築よりは壁の量は少ないと思いますし、また出来てくる壁もかなり、全体を分割するような作られ方ではないと思います。無いわけではありませんが、部屋と呼ばれる空間はかなり少なくなっている。表と裏、利用者と管理をする人の区分を最初から無くしたいと考えていて、動線等も完全に撤廃することは出来ませんし、表と裏はある程度は出来ていますが、通常の建築と比べるとかなりルーズになっているのではないでしょうか。裏方にこもっている職員の方達に利用者の所へ出てきて欲しいという思いがここには込められています。それから、チューブの中にエレベーターや階段が入っていたり、或いは空洞になって上下階での視覚的なコミュニケーションが可能になっているわけですが、これは吹き抜けとは全く違う空間だと思いますし、均質空間とも違う。もっと違ったフロアー毎の関係を作り出しているじゃないか。あそこで、4基のエレベーターの中を通過する時にどういう体験をするかは私も一度も乗せてもらってないのでわからないのですが、そこに表されているような経験のようなものを作ろうと思ったわけです。私にとってチューブとハニカムのスラブで作られた空間は、決して何か外から最初のコンペティションのモデルが誤解されたように、外からの視覚的な表現ではありません。私にとっては公共建築の持っているバリアを解いていくことが可能となるような方法を提案として行ったわけです。

阿部
有り難うございました。今日は情報施設の設計をめぐってということで、多分最もその新しい情報施設に近い二つの施設(宮城県図書館とせんだいメディアテーク)が幸いにしてこの仙台にあるわけでして、その設計者の御二人を迎えて、そういった施設の在り方についてお話していただきました。原先生の御話にも上がっていたのですがやはり情報というものの形が大きく変わってきていて、もしかしたら図書館というものは要らないんじゃないのかというそんな極端なことまで考えていかなくてはならない状況の中で、図書館という建築にどういったその場の質や性能が求められているのかが、多分皆さん方が一番興味を持たれていることだと思います。最初に原先生に御聞きしたいのは、先程宮城県図書館に関して色んな話しをしていただいた中で、メディアが建築を変えるのはどうも未だ良くわからない。その中で昔から変わらない図書館の本来的な場を準備されると同時に、何か変わっていくその図書館の可能性について開いた場を用意しておこうという言い方をされたと思うのですが、その辺りのことをもう少し実際の建物に絡めて御説明して頂ければと思います。


2つというのは、一つは図書館では不必要だと言われている部屋も含めて用意した点と最も増築可能性の高いプランを作ったことに表されていると思います。私が作ろうとしていた、何処か先程の伊東さんのスケッチと似ているのですが、やっぱり公園を作ろうと思った。どちらかというと。図書館をつくるというより公園を作ろうと思った。公園を作って、本を読む目的で無い人もその中に入って頂くというような、色んな意味で、街のような建築の中にちっちゃな都市をつくって、(都市とここでは公園なのですが)、そこに皆が街の延長としてやってくる。それで、色んな人のやっている行為(本をめぐって、或いは情報をめぐって)を見る。人々を観察する。それで、観察することで自分が学んでいく知的興味を持っていく。こういう知的連鎖を起こそうと思いました。僕が非常に懐かしい図書館というのも実はそうだったと思っています。僕らは非常に狭い社会の中でコミュニティーが出来ていたのですが、中学の時は中学、高校の時は高校といったクラスメート的なものを越えて、誰がどういう本を読んでいるかがわかるわけです。学習の契機になる自分の知的興味が何処から発生したかといえば、それは図書館で他の人々がとっていた知(情報)に対するアティチュードを見ながら、(あの人がああいう本を読んでいるから僕も読んでみよう)学習してきたので、やはり見るものは人だと思うのです。最初のメディアに関する幾つかのプロジェクトを考えていく中でも、僕は人の観測をします。これはどんな建物でも同じだと思うのですが、そういった情報(本)を契機として知的興味が何処にあるのかを発見しいく場所であるべきだと思います。劇場といえば恐らく演劇というパフォーマンスを通して知的興味を持っていくということになりますが、やはり人が何に対して関心を持っているかがプレゼンテーションされていることが重要です。僕はモール形式の図書館はなかにはいろいろ論議を呼ぶと思っています。もちろん増築可能性としてとか、自然にリニアであるとか、それ以前に建築的なイメージが持つものとか、色々理由はあるのですが、やはり自分が自分の本を探すのではなく、他者が何を探しているのかが良く見える。そのための空間は非常にシンプルな形でなくてはならないと思うわけです。

阿部
原先生が場を共有することで人が何をしているのかを見て、それが自分の行為を喚起していくのだと思います。先程伊東さんのコメントの中でやはり、建築というのは、そこに差異を設けて規定していくことだとおっしゃられていて、原先生がおっしゃられていたような建築で規定していくことではありませんが、人と人とが場を共有することで喚起されていく行為に共通して注目されているような気がしたのですが、いかがでしょうか。

伊東
その通りだと思います。例えば、大学で建築を学び始めた頃、製図室に居て原さんが通ると「あれが原だぜ」とか磯崎さんが通ると「あれが磯崎だぜ」とか言っていた。そばを通って行くだけでも身が震えるような気がしたわけです。それが閉じられて部屋に皆がこもってしまったら、そこで何が行われているかは全く関係なくなってしまうわけなんですね。今の公共施設というのは、そこに一つの機能を与えてそれを性能という言葉でかこっていて、性能を確保する部屋として外には匂いも音も漏らさなくしたわけです。僕は非常につまらないことと思うのです。ふっとその匂いなんかも漏れたほうがいいだろうし、誰かがでかい声で歌っていたりするようなことが感じられるような関係を作り出していくことが、人が集まってくる意味なんじゃないだろうか。アクティビティの関係をどう上手く見つけられるかに僕は凄く興味があります。

阿部
そろそろコメンテーターの方に振りたいと思います。高橋先生には御二人の作品を昨日御覧になられての突っ込みを是非入れていただければと思うのですが。

高橋
高橋でございます。ここに並んでいる御二人は、僕が大変尊敬している御二人なので、突っ込みと言っても変なことが言えないわけよ。だから、まずいわけよ。結局、阿部さんも言うように、狙いは一緒のような感じがするのだけれど建築の基本に関わるようなこと、公共建築と言うのかな人間が作為、無作為に集まってくる場を建築としてどういうふうに受け止めていくのかという基本的な命題に入っていくと社会の仕組みに対する一つのチャレンジというようなものをそれぞれ大きく持っているわけよ。両方の2つの建物についての建築的な問題をここで今言ってもしょうがないわけで、建築と人間の関わりに注目しているところでは2人とも同じなわけです。運動の法則というかそのソフト建築家がどどこまで関わってくるのか、そういうソフトとそういうのはこれからの問題だと思いますよ。あの建築が続く間、原さんは一生生きているわけでもないし、伊東さんもそうだよね。だからバリアを作って欲しくないと言っているけれど実際ぼろぼろ作られるかもしれない。10年くらい立ってみるとガラスの箱の中に箱が一杯あって伊東さんが絶望的になっているってこともあるよね。つまり、近代建築の中にある機能的な建築とか人間の非情にコンペティショナルな習慣的な動き、或いは歴史的な動きの延長線上にあるわけよ。今御二人が作っているのは、予測不可能性というものをどうやって建築の中にアクセプトしていくか受け取っていくかという提案なんだよ。2つともね。やり方は少し違うけど。原さんが公園をつくると言って伊東さんは森を作ると言った。じゃ森と公園はどう違うのかということはあるわな。こういうふうに受け取っていますと言うことを第一回目のコメントにします。

阿部
有り難うございます。富永さん御願いします。

富永
私はもう少し建築的な感想を述べさせていただきます。宮城県立図書館は行ってみて非常に様々な場所が用意されているなと感じたわけです。特に一番魅力的だったのは地形広場というところで、あういう緑に挟まれたところで本を持ちだして読んだら面白いだろうと思いました。あれだけ巨大でなくても良いだろうとは思うのですが見たことの無い空間で、どんなふうに日常使われていくのかなということも興味あります。もう一つは大閲覧室。僕自身は谷に架け渡す全体構想や原先生のおっしゃった公園をつくるということから考えるとどうして開口部を空けて、もっと緑と接触するようなことをされなかったのかなとと感じましが、見たことの無いような内部空間が出来ている。そういう様々な場所が用意されているという時に、一つの問題は本来は内的なものから発生すべきであろう多様性が、建築家が決めていく、すなわち外的な要因から決められてしまうことにあると思います。外側から多様性が与えられていくと空間がテーマパーク化してしまうという恐れがあるのではないか。よそをわれた多様性にすぎなくなってしまうのではないかという懸念はあると思います。せんだいメディアテークは、都市の中心部に非常にエキサイティングな空間が出現しているなと予感がありました。一つの建築の構想を徹底していくとこうなるのかなという凄さというか建築的な興味を感じました。これは建築をちゃんとやらなくてはならないと思いました。非常に元気を与えてくれる建築だなと思いました。非常に姿が美しくてある種テーマパーク化していくのに必死に抵抗している姿に感動しました。都市の中にこういう空間をストンと据え付けて、50m×50mの原板のようなものをセッティングし、その上にかなり難しいルールを与えて、碁とか将棋の棋譜を考えていくようにいろんな棋譜が生まれてくるというような。どうだ使ってみろという感じの、人間の活動をあぶり出すような、空間の側からのリトマス試験紙のような、そういう挑戦的なものを持っていると思います。やはり、この建築の面白さというのは、現実に経験できる空間的な刺激や、それによって現実社会へ訴えるというものではなくて、空間的なシェマが抽象度が高く明解で、建築をイメージする時の仮想世界(現実の世界とは異なる)を直接呼び出しているような、そのようなものが都市の中に乗り出してきちゃったんだなという印象を受けました。
 
阿部
有り難うございました。
このままだと公共施設のデザインの話しになっていくのですが、情報施設とはどうなんだというのが主催者側から振られたテーマなので、ここであえて情報施設に振り戻したいと思います。御聞きしたい質問は重複してしまうのですが、先程おっしゃられた公園と森というのはもしかしたら、御二人の中では同じだけど反面すごく違うものがあるのかなと思いました。では、具体的に人の行為が人の行為を喚起していきながら、それがプログラムを乗り越えていくような可能性を持った場をどうやって作るんだろう。その時に例えば情報施設という特定のタイプの型みたいなものはどうなってしまうのだろうということに非常に興味があるのですが・・・。


情報の時代というのは、やっぱりコンピュータの時代だと言う感じがしますが、人間がばらばらになると同時に等距離になっていく、むろん距離が近い人を無くすことは難しいでしょうが、ここに住んでいてもウルグアイのモンテビデオに1年の1/5位住んでいて、向こうの人と仲よくなって、インターネットや電話等をしてしょっちゅうコミュニケートしている。実際に事務所人の方が物理的な距離は近いのですがウルグアイの人が自分の中では同じような距離になっている。僕の理想というのは全ての人が等距離にある社会でそういうのが比較的見えています。このような距離空間のことを僕は離散距離空間と呼んでいます。この離散という言葉は離散家族というように日本では非常に悪いイメージに捉えられていますが・・・。密着空間では全体か0かしかないのですが、そうじゃなくて一番豊かな部分が残されている集合のことを離散集合と言うのです。そして、最も豊かな部分があるのをディスクリートトポロジーと呼んでいます。単に論理的な部分だとか、距離的な部分はユーグリッド空間からできていたりするのですが、僕は社会はディスクリートなのが理想だと思っていますが、問題はそのディスクリートな空間というのが、どうやったら表現できるのかということです。ディスクリートというのは、全部バラバラになるということでもあり、ある意味でワンマンなのです。ディスクリートシティと言った時に等距離でそのままバラバラであれば、それはワンマンシティでもあるわけです。ディスクリートの特徴としてどの部分を取っても有意義であるというのが集合の基本なのです。例えば私と伊東さんと高橋さん3人をとっても意味があるし、高橋さんと僕をとっても意味があるし、高橋さんと伊東さんをとっても意味があるし、一人づつでも意味がある。無いということも意味がある。トリアルな密着空間を作ってしまうと、高橋さんか伊東さんか僕か0かなんですよ。つまり人が集団や組み合わせを作るときに最も豊かな在り方、考えられる全ての可能性を内包している社会が、ディスクリートトポロジーなんです。数学的にはそうなんですけれども、それを建築的にどう表現するのかはわからない。もしわかっていたら、それが新しさなんだと思うんですよ。物理的に無理なのかもしれないけれども、そうした社会がイメージでるようなもの。つまり、ディスクリートな空間を作るために、例えばインターネットは実際に機能していると思います。でも残念ながらインターネットは建築を決めない。或いは電話のようには決めなかった。或いは速くて認識できなかったのかもしれませんが・・・。

高橋
質問していいですか。ディスクリートな空間ていうのは有意義であると同時に全部消えてしまうということもある。一つ、一つがね。全部が0になってしまうこと。


人間の社会というのでは理論的には0、すなわち全部が駄目になってしまうこともあるでしょう。

高橋
そう、だからインターネットの社会のもう一つの可能性というのがあるような気がして怖い。


ただ、実際、理論と現実とか名前を持った生身を持った私というのはそういうものだと私は思っています。距離空間というのはミースが均質空間として表現できたんですよ。ディスクリートな空間はどんなのかわからないんですが、それは次の課題なんですよ。それを片目で見ているというか、伊東さんはだからあう言う建築をつくるんですよ。彼が説明するときに柱や梁とかの説明がわかりやすいと思うけど森の中なんて言うんです。森の中に人が現れたときに離散空間かもしれませんね。公園とか、他者を見るとかセミオートマティックフィールダーとか、離散的なアトラクターによる空間の形成とか、僕が言うのは、完全に見据えているわけではないけれどもそうしたたぐいの空間を予感するからなんですよ。予感するというかそれを表現してみたい。伊東さんは全然違った発想しているかもわからないですが・・・。

高橋
質問していい。今おっしゃったディスクリートな空間を社会的に共有するような場が未来に向かって開けると御思いですか。


はい思っております。例えば電話とかねディスクリートな代表的なものとして出てきたわけですよね。郵便だったら時間がかかるし、旅すれば時間がかかるし電話は全体ではほぼ等距離、社会全体でほぼ等距離だから。人間関係のあふれている今はそれを建築的にどうやるといいのかというところなんですよ。南米になんで興味を持つかといいますと南米にね、僕が名付けた離散空間があるんです。1年作って2年休むとか、酷い所では2年やって15年休むとか色々ある散村の休耕地の所に、本当にディスクリートな場があるわけです。でも、動作が見える距離内に全部入っているから、僕らが入っていくと声が聞こえる。一軒、一軒の距離が入っていくと瞬間的に全部わかってしまう。その村というのは。僕は現実にもちろんディスクリートな機構は出来ていませんよ。非常に貧しくって、クールでね、皆仲良くなんて言っておれないわけですよ。皆仲よくなんて言えるのは豊かな社会の話です。それぞれが勝手に生きていて且つ助け合わなくてはならない。どういう形でも。幻想かもわからないけれども、そういう社会があるんじゃないかな、と思ったりするわけですよ。

阿部
そういう社会において情報施設のイメージというのはどうなりますか。


だからね、情報の方が先に行っているんだよ。建築は良くわからないんだよ。物を持っていて物の感性を引きずっているんじゃないですか。そういう感性を打破しようということで、例えば伊東さんは画期的な建築を作っているんだと思うんですよ。つまり、メディアのことと直接結びつくかどうかわからないと思うんですよ。けれどもメディアテークのシーンが何か次の世界を暗示しているようには思います。どちらかというと物は遅れているんです。均質空間については、メルカトールだって地図つくったし、デカルトだって座標をつくってるんだけど、建築は300年くらいたってはじめてミースが作るわけです。今も情報の方の在り方ががどんどん展開しているのに対して、物の世界というか身体を引きずっている建築はそう簡単に上手い解決には至らないんじゃないでしょうか。それは、かなりいろんなことがわかっていると思うんですが、鋭い直感が必要なのではないでしょうか。

阿部
伊東先生いかがですか。

伊東
難しいですね。今のような原さんの情報空間のイメージがあって、僕は常々こう何か人間がそういう情報をベースにした関係を持てば持つほど、もう一方でプリミティブな身体がもう一回顕になって、それが裏表になっているという感じがあります。それに頼りたいという部分があるんです。原さんのように頭が良くないので、そこから先は良くわからないのですが、さっきのが森、例えば桜の森だとすると、隣り合って花見してる様なイメージがあるんです。携帯電話なんかで話しているのをみると、現代の人々というのは、はっと小さなグループで集まる。もの凄く速いスピードで集まり、それを繰り返す。集まっては消え、集まっては消え、それが少しづついつも場所が代わり、人が変わり、それを繰り返すようなそういう集まり方をしています。何かメディアテークの中でも、その色んなグループがあっちこっちで花見を行っていて、その間にさっき原さんがおっしゃっていた知的連鎖が生ずるような期待は凄くありますね。だから何か型を作るのではなくて、むしろ型がないことが重要なことではないかと思うんですよね。コンペティションの時以来ずっと我々の提案は、メディアに対して何にも言ってないと言われ続けておりまして、それで5年経って少し僕にはっきりしてきたことは、何も言わないことがメディアの時代の空間なんじゃないかと開き直ってきています。このことはいい加減にいっているんじゃなくて、実はここで何をやるかと言うことに関して、かなり真剣に議論してくれる人達がずっといます。午後、出てくれる桂さんや今回のシンポジウムの企画をしている小野田さんとかそういう若いグループの方達がほんとにボランティアで、殆ど設計の始まる時点からこの建築をどんなふうに、使っていくか、どんなふうに運営していくかというのを、役所の委員会とは少し別の形で、しかし役所の生涯学習課の方たちが入った場所で、ラウンドテーブル的にずっと話し合いを続けてきてくれています。役所の内部で決める企画とは別の形で、小さなワークショップを繰り返すようにして、ここでどういうことが行われるべきであるかということが少しづつ具体化していく。僕は建築家が設計をやり、計画の学者が居て、自治体があってという関係があるのではなくて、どういうふうに運営をしていくのかというもう一つの設計者というかグループの存在がどうしても必要と思います。何かはっきりとした、こういうことがあるべきだというものがあるのではなくて、設計の時点からオープン以降も一貫して絶えずその中で行われることを修正して動かしていけるような組織を作ることが特に情報施設では重要ではないかと思うのです。

阿部
今おっしゃられたことは建築の設計の結果としてハードは出来るわけですが、それだけではなくて設計と運営も含めて全体の行為を流動的にやっていくのが重要なんだとおっしゃられたと思います。同時に、ここで情報施設はどうなんだという疑問について又御聞きしなくてはなりません。先程すこしおっしゃっていたと思うのですが、情報が行き着く先にプリミティブな身体が浮き上がってくる。いろんなものを流動的に持っていてもどっかに残されたハード的な部分があるかと思うのですが、例えばメディアテークの場合にはそれはどういった部分なんでしょうか。

伊東
何時も建築になるというのはかなり中途半端な状況を意味するわけで、私の場合には、森と建築が同時に存在しているわけです。例えばギャラリーに行けば絵画を掛けるための壁が、実際には沢山あるわけですね、ただこの壁の作り方が単に可動か可動でないかと言う問題ではなくて、建築の中における壁の在り方みたいなものが、意識として可動か、可動でないかと言うことの方がが重要であり、それが建築を変化させていけるということに繋がるのではないかと思います。そうですね。その花見のゴザみたいものとして考えていただけれいいなと思います。

阿部
ちょうど、御二人にコメントを頂いて終わるくらいの時間しか残されていなかったのですが、
では最初に富永さんから、先程コメントの中で建築サイドから規定していく危惧みたいなものをおっしゃられていたと思うのですが、それと今の御二人の会話は噛み合って来るようにも思うのですが、その辺のことについて御話頂ければと思います。

富永
内容が変化してく時に、これからの情報社会における図書館というものが変化してく時に、最初に何を設定していけばよいのかが、問題だと思います。それは、極めて難しい問題で、実際に動くかどうかではなくて、動きうるようなものとして感じられるもの。現実の世界ではない空間的なシェマとして感じられるような場所を求めておられるように思うんですけど、そこら辺はどうなんでしょうか?
最初に森というイメージを出してきて来られてそれと図書館の関係なんでしょうか。それとも、図書館でなくても良いのか他の建物でもよいのかオフィスビルでも共通しているものなのかな。

伊東
基本的には僕はオフィスでも裸で寝転がって仕事しているほうがいいなと思っている人間なので、基本的には同じなのですが、そういうことを言っても始まりません。恐らく現在どこでも作られている図書館があり、どこでも作られている美術館があって、そこからどう変わりうるかということだけが問題になるはずです。メディアテークの場合はその時にメディアテークという名前をコンペティションの時に磯崎さんと審査委員のグループで言われたということは、僕らには力になりました。つまりこれが、何々文化会館だったら、頑張れなかっただろうと思う。4つの機能を複合しかつメディアミックスしなさいと言うことがコンペティションで言われたわけです。必ずしもミックスされているとは言えないかもしれませんが、違う機能の施設が混在することによってそこに集まる人々も違うわけですから、違うことによって、何か連鎖が生まれてくる。単に積層されてるだけではなくて、もう一歩進んだ、何か融合というような形が生まれてくるのかどうかが、全くせんだいの場合では未知数でどのようにこの施設を使っていくかが、一重にかかっていると思うんですね。

富永
階高に拘ってつくられたように、都市建築のタイプというような感じがするんですね。ず〜っと横断して積層していって、何かあのコンテクストというかあそこの通りの力というか、もちろん図書館というのもあると思いますが・・・。

伊東
それをタイプとして言えるかどうかわかりませんが、並列して、あえてその間に格別の関係はつけないということが都市空間的と言えるかもしれないと言う気がしますけれども。


短く言います。住宅とか図書館とか劇場とか何か色々あるけれどもそれに対する正解なんて絶対にない。僕は世界の住居を調べてきて、住居とはどういうものかっていうのを見て、如何に一つの同じ条件の元でも多様な回答があり得るか、つまりサハラの砂漠の中でも今までの理論だと、サハラの砂漠には砂漠の建築として一つの類型をつくるという、自然条件が同じだからそうなる理論が圧倒的だったんですね。しかし、現実に全部みると全部違う、それは一つ一つ解法が違う。建築のスタイルも違うし、つまり、建築というのは元々そういうものであって、これだからこうしなさいあーしなさいというのは非常に傲慢ですよ。そういうことを言うとすれば、それではなくて、いろんな解がありうる。メディアというのは、もっとわからないわからないがゆえに、非常に多様な解がある。そういう建築だと思うんです。メディアというのは本当にこれが始まった瞬間で、多様な解があるわけです。その解の中で、最後に収斂するなんて絶対嘘で、どんどん作っていけばどんどん拡散していきます。ますます色んなスタイルが生まれてくると思います。



小野田
それでは定刻になりましたので、さっそく午後の部を始めさせていただきたいと思います。午前の部では壇上に上がっているのは司会を含めて全部建築家で建築家が図書館、情報施設ということについて議論したわけです。その到達点はかなり非常に興味深いものがあると思いますけれども、今度はガラリと変わって実際に情報施設のソフトウエアのお立場から関わっておられる先生方に上がって頂いて、午前と同じテーマ図書館・情報・施設をどう考えるかについて語って頂きます。それを午前の部と比較していただくと非常に興味深いと思います。
で、その前に若干ふっておきます。桂先生はメディアテークのプロジェクトに第1部でも伊東さんからお話がありましたけれども、ボランタリーな関わりでもう5年くらいずーっと面倒見ていただいてる図書館情報大学を卒業されながらいろんなところでいろんな知見を自分でつくってこられて今は芸大の先端の方の助教授をされてます。まあ、そういったメディアと図書館両方語れる人と、いうことで日本ではなくてはならない方だと思います。メディアテークに関わっておられるということで壇上にお呼びしたということもあるんですが、別にメディアテークを代表してるわけでもなくて、ま、批判的なスタンスを取りながらも、距離を取りながら知識人として対峙しておられる方です。おとなりの久恒先生は民間企業にずっと勤めておられまして、そこでマーケティングですとかニーズをどうやって掴んで具現化していくかというお仕事にずっと携わってこられまして、宮城大学ができた時に事業構想学部の教授として招かれた方です。先生は宮城県県民生活向上委員会の委員長としての仕事の第1号として宮城県図書館のサービスについてのサーベイと提言をまとめられたと。市民ニーズという立場から図書館をどう考えるかということではもう適任かと思って壇上に上がっていただいております。そのおとなりの竹村先生も非常に多様な活動をされておられるので、非常にまとめにくいんですが、人の文化、社会とか文化とかそういったものと情報との関わりをずっと追っておられるので、情報と人や社会や文化がどう関わるのかというご専門の中で情報施設とか図書館と言われるものがどう位置づけられているのかについてご発言いただければと思っております。先生はまた4、5年前の建築学会の委員会で、その時はもう箱はいらないと、いうような建築家にして非常に挑発的な言葉を投げかけられたので、今回はどういうふうな言葉を我々に投げかけてくれるのかと非常に楽しみであります。そのおとなりの栗原先生はもうずーっと図書館をどういうふうに計画して言ったらいいのかということにに携わってこられたその分野では知る人ぞ知る第一人者です。図書館という施設型に関してのアンカーマンとして座っていただいてます。その流れでコメンテーターの先生方お三方の先生方をご紹介させていただきますと、植松先生は図書館情報大学ということで、栗原先生よりはもうちょっと図書館側に立たれているスペシャリストとしてお呼びしています。資料集の中には「私の立場は既存の図書館の擁護派なのだろうけれども図書館がこのままでは衰退の道を歩む可能性が高いことは言うまでもない」なんていう刺激的な文章を書かれておられますので今日のご発言が楽しみです。おとなりの沖塩先生は情報企業にずっと在籍しておられて情報と建築というものを実務でずっと体験してこられた方でしてその後、大学に転身されまして、建築と情報に関する研究にずっと関わってこられた方です。研究領域としてはファシリティーマネージメントで、いろんな関わりがありますけど、情報と建築について幅広いご発言が期待できるかと思います。最後に花田先生ですけれども、先生のお名前は最近の建築の関係の雑誌でよく耳にしたり目にしたりされることが多いかと思います。これからのビルディングタイプをどういうふうに読みといていったらいいのかということをお伺いするには適任であろうということでここに座っていただいております。以上の陣容で進めますので今日はどうぞ3時45分までよろしくお願いいたします。では最初トップバッターとしまして桂先生にこれからの図書館、情報施設のあり方についてコメント頂ければと思います。


はい。桂です。小野田さんからずいぶんサポートしてもらいましたが、僕はこの場でメディアテークを代表してかくあるべしというつもりはなくて、もっと一般的にもちろん具体的な事例として、宮城県立図書館とそれから仙台メディアテークっていうのは当然想定されますけれども、施設というものの未来像を一般的な話として広げたいなと思っています。お話したい論点は、ふたつの対立事項ですね。ひとつは僕はこれまでの特に文化施設、例えば図書館、美術館、博物館っていうものは並べるということが基本になってきたものと思ってます。つまり、見て下さい、利用して下さいと本を並べる、作品を並べる、宝物を並べるということで、ある種の秩序・ルールが生まれて、それを共有するという形で今まで運営されてきたのが、いわゆる近代の施設型であると。本が輝かない、どーのこーのっていうのがありましたけれど、あれはやっぱり並べるっていうことが一番眼目におかれてることだと思うんですね。で、僕はそれば別に否定すべきことではなくて、並べることの秩序というのはとても、やっぱりある種のスケール感を実感できたりするわけですね。例えば、自分の本棚に本が溜まってきて、ふとある日気がつくと、俺もひょっとしたら賢くなったかもしれないとか、学者らしいとか思ったりするわけです。ところが実際に読んでる本はちょっとしかなくてですね、で、人が来る時にかっこわるい本は奥にいれちゃったりなんかして、並べるこっていうのはやっぱり物とインタラクションしてるわけですね。インタラクションしながらこう、イマジネーションを膨らましていって自分の知的な想像力を拡大していくんですね。で、並べられてるのは何かっていうと大げさに言えば世界のサンプルですよね。ある人の考え方を知るっていうのがまあ本ですから、それは世界のサンプルなわけです。で、美術館に並んでる作品の場合はその人の世界観が美術作品として現れたものですし、博物館というのは陳列といいますけれども、それまでリアルなものとして継承されてきたものなわけです。やっぱり今までの公共公益施設、特に文化施設の場合は並べることというのが一番の大きな重要な役割でもあったというのは間違いない。それがひとつの軸なわけです。
 今メディアっていうものが新しいもことのように言われてますが、実は通信とか交通とかっていう概念はもはや100年以上たってるわけで、そんなに新しいものではない。ここには開くことの秩序っていうか、ある関係性があるわけです。その開くことによってできる秩序の典型的な例がネットワークです。例えば、交通というのは人がどっかに空間を広げようと思って出ていって、出ていった所で何か関係性ができあがる。それを総称してそれをネットワークと言うんです。先の並べる秩序と同時に近代っていう時代はこの開く秩序も目指してきた。それでテクノロジーの都合でしょうか、何の都合でしょうか、開くことの秩序の方が並べることの秩序を追い越しつつあるように見ています。僕は両者は共存できると思ってるし、また共存しなければならないと思ってるんですが、開くことの秩序というのがインターネットでの出現これからで、本はなくなりましたかとか、図書館はどうなりますかっていうのは知的な態度とは全く思えません。むしろその我々が今まで考えてきた、当たり前だと思ってきた「秩序」というのをもう少しきちんと整理した上で、今その開くことの秩序が追い越そうとしてる状況をちゃんと整理してみてもいいかなという気がします。
それでメディアテークがわからないとかっていう話をすーっと今まで聞いているわけですね。ちょっと聞きなれない言葉を行政が言うとすぐわからないと。それは当たり前です。わからないですよ。ところがですね、物事ってそんなにわかりやすいことってなくて、じゃ、あなた家ってなんですかって言われてそう簡単にこたえられる人はいないわけです。メディアテークもこうですっていうのは機能の面から言ったら出来ちゃうわけです。図書館とギャラリーと視聴覚ライブラリーとバリアフリーサービスとかっていうメニューを言うことは簡単なんです。ところが、それが何か施設の意味を表してるって考えてること自体も実は無効かもしれないっていうこともあるわけです。やっぱり僕は標本を並べてきたっていうことと、その標本が関係性を持ち始めたっていうふうにメディアはポジティブにとらえたいなと思っています。それに関しては情報を共有するとか、それを瞬時に世界中の人たちのメッセージが届くとかということではなくて、むしろ並べられた断片だったものがなんらかの関係性が見えてくる時にいわゆる開くことの秩序、つまり、ネットワークのアドバンテージが使えるんじゃないかと思われます。いうことで、僕はポジティブにとらえたいと思うし、僕が5年間ボランティアでメディアテークをなんとなく関わってきた、いや、なんとなくじゃなくて相当関わってきた苦しくもあり楽しくもあったその関わり方っていうのは、やっぱりメディアテークは開くことの秩序っていうことで考えられてるのかなぁ、伊東さんってひょっとしてすごいかもしれないっていうシンパシーで今までやってきたんです。事実、今建物が立ち上がってきて、なんで僕がプレッシャーを感じなきゃならないのかわかんないですけど、プレッシャーを感じてるわけです。つまり、僕が今言ったようなことにホントに建築に対してちゃんとこたえられてるのかなっていう気もするし、またひょっとしたら、建築を乗り越えられるようなアドバンテージ、ネットワークのアドバンテージができるのかなって気もする。ここはまだホントにわかりませんが、さっき言ったように、今まで並べることだけで考えられてきた秩序を開くという秩序で考えてみることができる。そこからいろんなことがわかるのかな。そんなことがひょっとしたらできるのかなっていう可能性は感じてます。で、僕がこの例を出すのもちょっとかなり凡庸なんですが、リナックスのオープンソースっていうのがあるわけです。オープンソースの思想っていうのは基本的にやっぱりある人がコードを私有するっていうことをやめて、1人が丸もうけするんじゃなくてんもっともっとみんな改良点とかバグを見つけたりしてデバッグしたりテストしたりっていうのをみんなでやりましょうというもので、その前提になってるのはネットワークで、それらを総称してオープンソースというわけです。つまり、開いてるわけです。それはリナックスっていうCDロムにパッケージ化しちゃえばひとつのサンプルになるんですけども、常に開いた状態で秩序が保たれてると。まぁあれは自然発生的ですけれども、かなりやっぱり面白いプロジェクトというか、状況なわけです。まぁ、そういう状況も踏まえてその、今までの並べることの秩序とそれから開いていく秩序みたいなものの共存がメディアテークを通じてできたらなとは思っています。で、細かいことはこのコンセプトとしてのメディアテークっていうところの中に書かれておりますので、おいおい触れながら議論したいと思います。以上です。

小野田
続いて久恒先生お願いいたします。

久恒
はい。宮城大学の久恒と申します。平成9年から宮城県の行政改革の委員をやっております。その延長線上にですね、平成11年度から県民サービス向上委員会という組織ができましたので、そこでも活動しております。こういう立場からですね、今回の宮城県図書館や仙台メディアテークがどうゆうふうに見えるかということをお話したいと考えております。今日は二つ申し上げたいと思うんですが、一つはですね、今の公的施設が県民や市民のニーズに速報した形での公共サービスの提供になっていうるかどうか、そして、そのための方法論が確立しているかという問題がひとつあります。それからもう一つは今行っている図書館のサービスを含めた公的施設のサービスが永遠に持続可能であるかという観点です。この二つからお話を進めたいと思っています。皆さんお手元の資料48ページにですね、三浦さんという方が公共施設としての建築のあり方を問うてほしいということが書いてあるわけですが、宮城県の行革の中ではですね、今回は県民の満足を中心にやろう、そのためには市町村とのパートナーシップが大事だ、そしてそのために県庁の内部改革が必要だということで組み立てられているわけです。県民満足については、一つは県民ニーズの把握や反映の仕組みが果たしてあったのかどうかという点です。これについてはここ2年くらいスタディーが進みましたので、その話をしたいと思っています。それから、サービスが持続可能な状態でこのままいけるかどうかということについては、県民サービス向上委員会で中味の問題というよりも形の方から検討しておりますので、その一端をご案内します。皆さんにお渡しした図ですが、行政に関わる各分野を7つの分野に分けて、それがどういった形で最終的に県民満足へつながっていくかということを示したものです。今回の議論は上の方の2の生活文化の所の議論です。下半分はハード群、上の方がソフト群というふうに分けていますが、県民の声を細かく分析をしながら、様々な提案をしてきております。この2年間の経験でわかったことがいくつかありまして、裏側の方に図が4枚ありますが、推測される行政の問題点っていうのがあって、県行政の問い掛けっていうのを県民がするわけですが、それを受けて一つは形式的回答で県民から不審を得るということですね、そういう流れがあります。それからもう一つは表面的解決ということで実際にやってみるとニーズに会わないものがいっぱい出てきたっていうことで、この結果あきらめですとか反発が出てきて、無関心や非協力になっていく、県民の声を丹念に読みますとこういう構造がかなり出てきています。一方、左の下の方ですけれども、良好な関係というのは外部の目をやりますと、建設的回答、あるいは本質的な解決策を出していって、それがですね、結果的に県民とのいい関係をつくっていくということです。この問題点が右上から下の方に行くための手続きをどうやっていくかというのが我々の関心で現在取り組んでいます。こういう観点から、県民ニーズマップというものを作りました。先ほど出た7つの8つの項目を総合的場面、生活文化、福祉、環境とか縦に並べてハード面とソフト面に分けてます。細かい字は県民からいただいた様々な声の代表的なものです。ここでどういうことが起こっているかというと、生活文化のところのソフトとハードの間のところで、サービス本体と駐車場の管理を分化するべきというのが出てきています。実は県の美術館の前が非常に混みまして、朝、なぜ混むのかということを議論したときに、実は美術館の開館時間と駐車場のオープン時間が同じ時間帯だったっていうことがわかりました。例えば、こういうことがたくさん出て参ります。県庁の内部ではそういうことは当たり前のことなので出てこないわけですけれども、こういう定性的なお客様の声、県民の声を聞きながらだとこういう流れが出てくるわけです。それから、その右下に福祉保健環境関係で障害者は行政速度の対応に敏感というのがあるのですが、その下を見ますと、保健福祉関係に苦情がものすごく多いんですね。おそらく一番苦情が多いんじゃないでしょうか。これは福祉行政を唱えている県としてはおかしいじゃないかという議論になるわけです。通常でいきますと、県知事が部長に言いましてですね、ちゃんとやってほしいということになるわけですが、僕らの判断は違いまして、同じやり方あるいはむしろ手厚くしているのにも関わらず、障害を持っている方は速度とか対応や言葉に敏感なんではないかという視点が出てきました。そうしますと、ここで起こっている毎日の出来事は県の中の精神的部分としていろんな事例が溜まってくるわけですので、それを県全体に広めていってはいいじゃないかという感じになっくるわけです。で、こういうものが四半期ごとにだんだんまとまってきて、様々な分野で活用され始めているということになります。それから、生活文化の所で(プリント裏面)、行政には民間並のサービスが要求されているっていう声が出て参りました。美術館、博物館に対する様々な要望を聞きますと、結局行政のライバルは行政ではなく民間企業なんです。行っているショッピング買い物、あるいはレストランそういったものと比べて行政のサービスについて苦情が多いということです。実は現在、「ザ・21」っていう雑誌の行政改革のランキングを見ますと、宮城県は全国で6位の行政サービスを行っているという評価をもらっているわけです。でもそれは行政の中だけの話で、県民自身は、他の民間企業との比較において常に厳しい目を持っているんだというふうになっていきます。例えば本文の方の94ページに柳沢さんという方が県の図書館についてのことを書いてますね。障害者を含めて使いづらいとかわかりづらいというのはどういうことなんだろうかという、疑問を書かれています。よく考えられた上にも関わらず、どうしてそうなるんだろうかという疑問があります。これはやっぱり仕組みの問題であると私は考えています。それで、こういうことを続けながら、行政改革の中でサービスのポイントをピックアップしています。公的施設は顧客の視点できっちり物が見れるかという点が一つと、もう一つは経営の視点です。持続可能なサービスをずっと提供できるんだろうかということです。私は民間企業でいろいろやってみまして、苦情をおっしゃる方はどういう方々であるかっていうのがわかりました。それはうるさいお客さんではない非常に感度が高いお客様でした。そして、顧客は成長しますので、3年経ちますと今クレームが来ているものは3年後の大多数の人がそういうふうになるということを何度も経験しています。したがって、今1件2件にすぎなくともよく見ると、未来の潮流を示している可能性が実は大いにあるわけです。だから、こういった面で行政のしくみについて考えるのは意味があるんじゃないかと考えています。それから、もう一つは、サービスが持続可能かということにについてですけれども、これは宮城県の図書館のサービスを1号議案に取り上げました。わかりやすく成果が出やすいかという観点から取り上げてきたんですが、結局、持続可能ということはサービスの維持向上とコストの削減が両立できるかという話になります。このポイントを踏まえない議論は長く続かないというふうに見ています。例えば、祝日開館をやっていなかったんです。それで、祝日開館や開館時間の見直しをして欲しいという提案の一方で、コストを削減するために、NPOやボランティアの参画、職員の機動的配置、あるいは部分限定サービス、つまり運営形態の多様化をやって、コストを削減して欲しいという提案が出ています。それから最後に、一部の付帯サービスについては有料化を実験して欲しいということがあります。例えば、駐車場の有料化はいいんじゃないかと。あそこは年間100万人程度訪れますが、かなりの人たちが泉区の住民です。受益者負担で100円取るとどうなりますかというと、年間5000万円の収入増になると言われています。それは自主財源ですよね。あるいは、あの広場も今無料で貸しているわけですが、やはり電気代とか取るべきじゃないかと、こういうふうに考えた提案をしました。
県の回答は、祝日開館については平成12年度から実施をするということで、好評を得ているわけですが、実際は、現場の工夫でなんとかこなしているという状態で、しくみを変えているわけではありません。有料化につきましては、利用者の理解を得難い問題で、利用者が減少する恐れがある。それから駐車料金を取るための施設改善費用がかかる。という回答がありました。我々の議論はですね、利用者の理解を得るために必要なわけですけれども、例えば駐車場の料金を取るというのは新たに装置を作るっていうことはしないで、100円置いて下さいというとらえをすべきじゃないかと提案しています。で、実は、平成10年度に、宮城県図書館は図書購入費が1億5千万ほどありました。平成11年度に1億円に減っています。で、おそらく平成12年度はこれが6千万7千万ぐらいまで落ちるんじゃないかと思われます。今宮城県も仙台市も財政が破綻をしていて職員の賃金カットが始まっていますから、マンガみたいな話ですが、150億円かけた全国有数の図書館で、図書購入費がなくなるという現実が目前に迫っているとみています。その時に、図書館や文化施設は大切だからもっと予算を付けるべきだということだけいってすむのかという問題がありますね。つまり持続可能な公共サービスではないんじゃないのかと考えます。皆さん方お手元の資料の82ページに石垣市の市原さんという方が書いていますが、人口4.5万人で18万冊の蔵書を持っている石垣市の図書館は図書購入費が900万円しかなくなってきた。で、基本図書が危なくて続かない恐れがあると、こういうふうに述べています。それからその前の80ページに福岡市の図書館の富田さんという方が厳しい財政状況下で現在のサービスを維持しながらやっていきたいが、これはできるのかと、共通の課題ではないかという発言をされています。例えば少子化問題で言いますと、スウエーデンなんかは少子化で1985年ぐらいにずっと2人の夫婦で1.6人くらいしか生まなかったんですが、90年に入って2.13倍に伸びたんです。それは保育所をつくったり、給食を増やしたりしたわけですが、財政が破綻をしてそれを続けられなかったので、現在はもっと下がってます。結局、持続可能ではなかったということなんです。僕の方の結論は、あらゆる部門でサービスの維持向上とコスト削減の両立の道を模索する必要があると。そのために、自分たちばかりで考えてなくて、利用者の声をよく聞いて、その声に耳を傾けながら、解決策を一緒に考えていく。そういう姿勢が今後必要なんじゃないかということです。


竹村
はい。今、久恒さんが図書館をめぐる私たちの社会的な状況や問題点をクリアにしていただいたと思いますが、私の話は桂さんに近い未来の図書館像みたいなところに触れたいと思います。私にふられた役割は、メディアがこれから進展した時に本や図書館とかいうのはどうなるのかいうあたりなので少し問題提起をしてみたいと思います。午前中、原さんが象徴的表現でおっしゃった「図書館の最大のコンテンツは人である」と。図書館のコンテンツは本とか書物だと思ってるわけですけど、そうじゃない、その本を読んでいる人である、人がコンテンツだと、私なりにパラフレーズすると、つまり、誰がどんな本をどのように読んでるかということが最大の刺激である。本の中にかかれているのはテクストです。しかし、その同じ文章を読んでも、人によって違う形で解釈をしたり、あるいは人それぞれが抱えている経験、資源が違いますから、その経験、資源のコンテクストによって同じテクストから全然違うものが引き出されてくるわけです。それが原さんにとって刺激だっ。これが僕は未来の情報図書館を考えるときのキーワードだなって思います。同時に本を契機として人と人とがつながりあう、これもまた重要なところで、つまり、インターネットで会ったこともない人がなんかしてるっていうのはよくある話ですけど、インターネットじゃなくても、常に紙の図書館の上でも実は潜在的に紙のその本、あるページをめぐって人と人とが意識しない形でつながりあってたんだなと思います。で、これを象徴するエピソードが宮崎駿さんの「耳をすませば」で、本が大好きな少女が図書館に行って、どんどん本を借りるわけです。ところが、借りるたんびに自分が読みたいと思って読む本の前に図書カードを見ると、自分が借りる本に限って必ず同じ雨沢君だっけ?の名前が書かれてるわけです。ですから、本の読書カードを通じて自分の読書歴とそのまだ見ぬそのナントカさんていう人の読書歴の重なりを見てるわけですよ。で、そんなに重なってくるとどんな奴だろうって気になって、それが恋物語に発展していくっていう話なんです。つまり、テクストが読みたくて本を借りるんですけども、その本を通じて、その本を愛でている、そのテクスト空間を共有している誰かさんのコンテクストに非常に興味を持っていく、っていうところが非常に鮮明に描かれているわけです。そのうちにどんな奴だろうって興味を持つだけじゃなくて、その人が読んでいる本を全部読みたい、みたいな感じになっていくかもしれない。そうすると、その人自身のその個人的な好みとか、属人的な読書歴みたいなものが、自分の新たな読者へのナビゲーションになったりするようなことが、プレインターネットの図書館空間において、既にあったっていうことです。ここに実は大きなヒントがありまして、メディアとかインターネットの以前から、既に本というのは所与の匿名的なテクストのパッケージであったのみならず、同時にその本を通じて人と人とが出会うというか、匿名的ではなく誰の手をその本がわたってきたのかという属人的な履歴のタグが読書カードという形でついていた。属人的な履歴のタグがついているからこそ様々な読書歴を持つ個々人の交差点に本がなっていた。それからまた、そういう交差点になっているということは、逆にその本が結節点にして、様々な人々の経験・資源がそこに交差している、見えない形で交差しているわけです。例えば、誰でもいいんですけど、夏目漱石のある一節を読んだときに僕が思い浮かべる別の作者の別のテクストですが、Bさんは違うテクストをそこに重ね合わせるでしょう。そうすると、その夏目漱石のあるページのテクストを通じて僕の内部にあるテクストとBさんの内部にある別のテクストがそこで交差してるわけですから、そこで、インターテクスチュアリーとよく言いますけれども、テクストとテクストがもっと大きな人類の大きなテクスト空間の中に何か見えない接線を連結線を伸ばしているわけです。潜在的にはそういうテクストとテクストの間をつなげていこうと、インターリンクしていこうっていう運動性が実は図書館の本の中で常にうずまいていたんだと思います。
あらためて考えてみると、インターネット時代になって、逆にそこがすごくクローズアップされてくるだけのことなんです。となると、その見えない連結線というか、見えないネットワークどんな人がどんな読書空間を背後に抱えてこの本をどんなふうに読んだのかという、テクストの背後にある人それぞれのコンテクストがもしそのページからたどっていけたら・・・。例えば、「耳をすませば」の彼女が雨沢君っていうのはこの本をどんなふうに読んだんだろう、あるいは、さっき原さんがやっぱり誰々さんがどういうふうに読んだんだろうと興味があったというようにですね、そのテクストを介してその人の背後にあるコンテクストをたどれたとしたら、面白い、新しい本の読み方、新しい図書館の機能みたいなものが生まれてくるんじゃないか。で、実はそれを可能にしてくれるのが、電子化、メディア化なんじゃないかな、というのが僕の言いたいことなんです。というのは、電子化っていうと普通ですね、もっとネガティブに考えられてるわけですよね、もう本がいらなくなるような。そんあことはとんでもない話です。もちろん。本っていうみごとに完成された素晴らしいブラウジングシステムそうそう簡単にいらなくなるものじゃありません。それはインターネットで本読んでる人、読む量がある程度の量を超えてる人ならみんな気づいてることでしょう。でも、じゃ、本と全く二文方でメディアがあるのか、あるいは、本の単なる管理インデックスとして電子が使われるのか、そうじゃないだろう。どうも最近なんか、本が電子的に管理されるようになったおかげで、読書カードっていうのはいらなくなってきてるんですか?ねぇ?なんかそれを残念がってる私の友人がいたんですけど、ホントにもったいないことなんですね。本の読書カードを通じて、そのテクストの背後にあるいろんな人のコンテクストにつながり得ていたはずなのに、電子化によってそれがなくなってしまう。それは非常にもったいないこと。逆に電子化はそれをなくしてしまうんじゃなくて、逆にそのコンテクストを本そのものにたぐりよせてくる、そういうシステムデザインとして電子化というのを利用できるんじゃないかと。何を言いたいかっていうと、簡単にいうと、なんでもいいんですけど、こう、本を開いたときにですね、読んで、なんか僕がこのテクストおもしろいと思ったら、自分の感想を、皆さんよく書かれると思うんですよ。僕三色ボールペンを使ってまして、その格闘によって赤とか青とか変えてやたら賑やかな本になってしまうんですけど。ですから、僕の本棚を見てれう人たちって大変楽しいらしくてですね、自分の持ってる本なんだけど僕がそこにどんな書き込みをしてるかってのがおもしろくて、やたらと本を開けまくって困ってしまうんですけど。そういうものを読むおもしろさてあるわけですね。ところが、それは私有物だからできる、公共物である図書館ではできないでしょう。そこを可能にしてくれるのが電子化なわけです。つまり、見えないポストイット、空中ポストイットというようなシステムが既にできつつありまして、とにかく、自分で例えば、図書館の入口で携帯端末、ザウルスみたいな携帯端末でもいいですし、ちょっと私は友人と開発しようと思ってる液晶虫眼鏡みたいなシステムでもいいんですけど、そういうんでパーッと電子的に打ち込んだテクストとか声で吹き込んだものとか、なんでもいいんですけど、そういうものが見えないポストイットみたいな感じでページにペタッと貼られる、で、後でこの本を読んだ人がそれは肉眼で見ると何も貼ってないきれいな本ですけど、ある、特殊なそういうザウルスとか液晶虫眼鏡で見ると、そこにいろんな人の書き込みがワーッと立ち上がってくると。それはテクストだけじゃなくて、音声も貼り付けられますし、ですから、理科の先生で、例えば理科の図鑑かなんかあってですね、ある非常に珍しい川の生物のページがあったと。ところが、そこには残念ながら白黒の絵しか、図しかでてないと。これじゃ本当の生き物の魅力って伝わらないだろうと思ったらですね、その理科の先生が川で実際にハンディカムで撮ってきた10秒くらいの映像のビデオクリップを圧縮してそこにピタッと貼りつける。それを後から来た子どもたちが実際に見れる。つまり、マルチメディアがそのページに統合されるっていうポイントが一つです。もう一つはその付加されていくマルチメディアコンテクストというのはいろんな人が勝手に属人的な経験・資源として貼り付けてそれによって、そのページ空間がいろんな経験につながっていく結節点になりうるっていうことです。言葉で言ってるだけではピンときていただけないかもしれないんだけど、例えばこんなところまで技術がきているという話を1、2分ですけども、ビデオでお見せしたいんです。技術の話はできれば強調したくないんです。というのは、技術はHowでありまして、肝心なのはWhatなんですね。何をやりたいのか、あるいはなぜ(Why)それをやる必要があるのかなんです。技術は単に補足ですけど、既にこういうことができる時代になってるということです。ご覧いただいてページをめくるとバーチャルリアリティーがポンポン立ち上がってます。これは簡単に言うと、特殊な眼鏡をかけてこのページをめくっていくと、ページそのものに書かれている文章も読めるけど、文章の上にポーンとこういうふうにバーチャルな画像が立ち上がるんです。別に眼鏡ではなくてもある種の携帯端末みたいなもので覗くこともできます。例えば博物館ですと、物そのものを肉眼で見ながらも、同時にその説明とか、いろんなデータがいっしょに重なり合って立ち上がる最近よくあるミクストリアリティーあるいはオーブメントリアリティーというようなものです。でも例えばこれバイオC1って市販されてる技術ですけれども、実際にこの本物の本がここに写ってますこれは数年前に私が仲間達と世界中の地震の発生を可視化するようなプログラムを作りました。今もインターネット上で公開してますから、興味のある方はご覧いただきたいんですが、世界中の地震がボコボコとこんなふうにいっているのをデフォルメして表現しています。例えば教科書、地震っていうか、地学の教科書なんか読んでてもですね、こんなものをポンと貼っとけば、そこにポーンとリアルな地震のインターネット画像みたいなのが出てきたりもする。あるいは、これはまぁ、楽器ですけども、楽器を弾いてる人がいなくてもですね、その楽器にこの虫眼鏡を近づけると、こんなふうにひいてこんな音が出るんだよっていうのがポンと飛び出てくると。これは、例えばそんなふうなことを自分の携帯端末の中にある画像情報みたいなものをポーンと本とか壁とかに貼り付ければ、おかずをつまんで、人におかずをポンとあげるみたいにできますよ、っていうピックアンドドポップでいうやつです。まぁこれらはしょせんHow toですから、あと2、3年もすればいくらでもできることでしょう。テクストという既存の本、それは肉眼では全然変わらないんですけども、そのページにいろいろとベタベタと理科の先生とか天体観察が趣味の人であればですね、天体のデータみたいなものをどんどん貼り付けてくれたりして、で、その本がどんどん育っていく。これは公共の図書館で共有されている本だからこそ、みんなが見えないポストイットを貼り付けて本や図書館がどんどんと成長していくということがありうるということです。それからもう一つポイントは自分がコンテンツを膨らませていくということです。今までは図書館のコンテンツっていうのは与えられるものだったんです、そうでしょ?有名な先生がお書きになった本がある。しかし、自分がコンテンツになれるわけじゃなかった。ところが、単なるたわいのない感想でも、さっきの有用な画像情報みたいなのでも、そこにどんどん自分なりのものを付加していくわけです。あるいは、宮沢賢治の詩だったら、テクストで活字で読んでるだけではあのリズム感なかなかわかんないわけですが、地域の素晴らしい朗読家ですとか語り部がいたら、その人に読んでもらって、音声ファイルにしてそこにはっつけておけば、そのページを開いて宮沢賢治の字面を読みながら耳でも聞くことができる。ですから、市民一人一人がコンテンツをそこで増やしていくということはつまり、市民一人一人が図書館のコンテンツになれるということです。自分がコンテンツになってるところには人はまた行きます、必ずね。ディズニーランドなんてのは楽しいかもしれないけど、自分がコンテンツじゃないですからね。でも、自分がコンテンツになってて、私の貼った見えないポストイットが貼られてんだよ、今度見てみてねってことになるとまた行きますし、宝探し的な面白さもあります。ページくってて誰がどんな情報をそこにはっつけてるだろうってワクワクしながらページをくっていったりとかそのうち人の発言や情報に触発されて自分では思ってもみなかったけど、そうだ、俺もこんなこと思ってる。それを付け加えるという形で、連歌詠みのようにページに付加される情報が膨らんでいくという形で、自己進化していく本、あるいは図書館ということが可能になります。ポイントをまとめますと、これからの図書館というのは、電子テクノロジーとの融合によってテクストを提供するところではなくて、そのテクストをめぐってそこに結節してくる一人一人の属人的なコンテクストを資源として編集し、また、可視化していく。コンテクストとコンテクストの出会いを演出していく装置になっていく。それから、2番目のポイントとして、リアルとバーチャルというのは二元論ではなく、リアルな本とか実際の空間としての図書館の場所性を媒介にしてバーチャルな情報が結集したり交換されたりしていく。バーチャルとリアル、あるいは、バリアフリーということでいうと、視覚情報と音声情報、活字情報と他のマルチメディア情報というのは、もっともっとリンク・重合していく。それから、3番目のポイントとして、施設型の可能性を開くって、これよくわかんないけど、僕なりに解釈すると、やっぱりこれからの施設型にも可能性があるんじゃないかってことです。つまり、よくネットワーク進化論で、シアター型からパッケージ型になってネットワーク型になるというのがありますね。映画館だったのがビデオというパッケージになり、ネットワークになるとか、教会に行かなきゃダメだったのが聖書というパッケージになってなんとかっていうあれです。でも、僕はネットワークに行ったときにシアター型に戻ってくるっていう回路もあるんじゃないかと。つまり、そこにある場所だけじゃなく本のあるページとかいうのも場所、位置情報です。ですから、自分が何かの情報持ってたとき、それに位置情報、なんていう本の、どの棚の、何冊目の本のなんページ目に貼り付けるという位置情報を自分のデータに付加出来れば、場所の情報をめぐる話だから、シアター型の時代だと。それから最後、4番目のポイントは、そういう形で市民が育てていくもの、みんなで育てる情報図書館ってタイトリングしたのはそういう形で自己進化していくことを考えていたのです。で、また、メディアテークのコンセプトに端末でなくノードになるんだっていうコンセプトが書かれてましたけど、こういう形でノード化が可能になるんではないかというふうに思っております。

栗原
今のお話には共鳴できる部分も大いにあるんですが、ちょっとついていけないなぁという部分もあります。私は自分の書いた作文に補足しながら申し上げてみたいと思っています。ご承知のように、情報技術が急速な発展をしてき社会の流動化が進んでくると、物がその姿をサービスに変えて解体してくるわけです。ハードがソフト化してくる。物がデジタル化された情報に姿を変えて、バーチャル化していく。そして、バーチャル化したものが、個人のニーズに応じて引き出される。こんな方向に動いているんだろうと思います。その動きに伴って、世の中の縦の秩序というものどんどん崩れていって、物の縛りが薄れて全てが相対化して平板化し、かつ、個人化していく。こんな流れかなぁというふうに基本的に認識しています。インターネットが爆発的に普及し、これからもさらに伸びるわけです。もちろん素晴らしさは十分わかりますし、受信でと同時に、各個人が世界に向かって発信できるというこのことの素晴らしさっていうのは、まことに革命的だと思います。けれども、反面、インターネットから得られる断片的な情報を通して、実際には見聞きしていないのにも拘わらず、見聞きしたように、あるいは知ったように思ってしまう度合いがどんどん高まってきたというふうにも思います。そもそもあることを見たり聞いたり知ったりするということは、これまではそれに至るプロセスというものがあったわけです。プロセスがあって結果に到達する。その過程の中で考えたり、苦しんだり喜んだりして結果に到達する。その全体像が見るということであり、聞くということであり、知るということであったはずだと思うんです。しかし、インターネットによって、その途中のプロセスというものがふっとんで、結果がクリックすることで直ちに即時に入手できる。そういうことの連続に我々はさらされてきた。それよって我々の時間がどんどん埋められていく状況になってきた。そうすると、手間暇かけて知ったりすることがだんだん面倒になってきて、全部そのクリックで済ませていこうという方向に流れていく。ということは、人間生活のリアルな体験というものがだんだん貧困化してくることが一面にあるのではないかと。その無限の情報に、常に直ちに到達できるわけですから、人間全体の傾向としては、反射的反応に長けた人間がどんどん出てくるけれども、受け止めた情報をじっくり考え、それを通してこもって想像へ向かって立ち上げていく力はむしろ、なえはじめたのではないかと感じるわけです。ことを図書館に戻したときに、図書館といいうもののこれからのあり方に関して、もっと自覚的であるべきだと思うのです。そうした時代の流れの中で、自己を確立し、思索し、想像に展開していく、そのような時間と場所が我々には必要なのですが、そういう場としての可能性を図書館の中に見いだせないだろうかというのが、私が自分に対して問うた事柄です。先ほどから出ていますけれども、出版形態のデジタル化とかインターネットの家庭への普及というものによって、本や図書館がなくなるという説が実際あります。本日の講師の方々はそんなことはばかばかしいとおっしゃいましたし、私もそういうふうに思います。けれども、みなさんご覧になったかもしれませんが、つい先ごろも著名な作家のステーブン・キングが新作の短編小説をネット上に配信したところ、40万人がダウンロードしてそれを読んだというニューズウィークの記事がありました。もう2、3年すれば、あらゆる本は電脳空間の中の架空書庫におさまっていって、読者は読みたいときにそれをダウンロードする時代になるだろうというようなことが言われていまいた。ということは、もうCD-ROMというようなパッケージを飛び越えて、本という出版の形態はなくなるんだというようなことを言っておりました。私はそういう見方もできるかもしれないが、とうていそうはならないだろうし、これまでの方がおっしゃっていたように、本というものは手触り、たなごころに入った触覚、パラパラとめくれば全体像が常にわかる、自由な姿勢で読める、第一美しいというようなことを考えると、パソコンの画面に向き合って、そこに引き出して読むのと、一体とっちが楽しいか、勝負にならないと思っているわけです。しかし、人間はやっぱり新しいものを好むという本能がありますから、新しいものはいいことだというような勢いは確かにあるわけです。でも、よく考えれば本がなくなるなんていうばかばかしいことはとうていないと私は思います。もしも、本当にデジタル産業にのせられて本がなくなっていくようであれば、人間というものはどうしようもなくばかものだなぁと思うしかないとすら思っております。というふうに、本の存在を信じるという立場に立ちますと、これからの図書館というものの機能はこれまでの図書館の上にデジタルライブラリーとしての機能をさらに重ねていくというふうに考えればよいのであって、これまでのものが解体するというふうに考えるのは間違っていると思います。デジタルライブラリーとしての機能は申すまでもなく、CD−ROM等の電子媒体仕様を収集をすること、あるいは、契約有料データベースを館内で開放すること、あるいはインターネット等の情報源に適切にアクセスするための援助サービスをすること、あるいは地域固有の、または機関固有の情報をデジタル化して発信していくと。そういうものを従来の図書館の上に重ねていくというふうに考えればいいんじゃないかと思っています。このとき、図書館が現物の資料のストックを持っているということは極めて重要な意味を持つと思います。一冊一冊の本にはそこにつまっている知識、物語があるわけで、それの集合が形成している場というのは知の森だというふうに私も思います。知の森に分け入れば、いろんな発見ができる、手に取ってリアルな体験で可能なわけです。断片ではなくて、著書の文脈の全体像をもとに資料にふれることができる。自分がつまみとった情報ではなく、全体像をもって自分に問いかける、全人格的に接せることができるわけです。そのことは、やはり現物資料を通して歴史の重みを感じたり、思索を深めたり、人をいざなったりしてくれるわけです。そういう意味で、デジタル部分というのはリアルな資料への誘導をしていくしかけとして、付加していくことには重要な意味があるとは思いますが、デジタルライブラリーの部分を切り離して、それが21世紀の図書館だという、情報館というような名前で、その部分を切り離していくということは、私は大変疑問だというふうに思っております。第2点に、創造的サロンとしてと書きましたが、これは竹村さんもおっしゃっていましたけれども、情報革命が進行していきますと、いろんなものが分散化、あるいはバーチャル化あるいは個人化していくわけです。けれども、そういう動向が進むということは、反面において、人々との直接の交流を必要とする度合いが反面高まってくるということもあるわけです。ですから、図書館はその所有する豊富なメディアを背景にして情報へのアクセスを楽しみながら、思索し語りあう、そういう知的な交流の場として育てるべき施設になりうるのではないかと考えます。で、これはもう申し上げるまでもないわけですが、思索っていうのはしばしば語り合いの中で飛躍的に発展しますね。どんどん座が盛り上がっていって、どんどんアイディアが出てくる、これは語り合いの中で出てくるわけです。そういう意味で、そのいわば知の森が発散するダイナミズムというものを受け止めながら、ゆとりのある時空間の中でディスカッションをし、想像へ向かっていく。それが新たな発信に結びついていく。図書館の作り方によってはこういう可能性をできるのではないかと。家庭でもなく、会社でもない、第3のいわば創造的な情報サロンとしての場とというものをつくりうるのではないかというふうに考えるわけです。結びというところに書きましたが、インターネットや携帯電話に代表されるバーチャルなコミュニケーションが進展していくわけです。けれども、そうすると、提供される媒体、つまり、インターネットや携帯電話の小さな窓モニター、ああいう窓口を通してものをわっかったように思う、知ったように思うと。そういう方向に行きつつあるのは危なっかしいと私は思うわけです自分の足で歩いて知る、人と会ってコミュニケートするんではなくて、携帯電話の小さな窓を通して知る。それが世界を広げているうちはいいわけですけれども、どんどんそれにはまりこんでいくわけですから、足で直接歩いていくのを嫌う、直接の接触を避ける、接触してもごく浅い接触で深入りはしないという方向にいく。ということは、人間の生物体としての生命力が下がってくるんではないか、というようなことさえ感じるわけです。そういう意味で、危ないと書いたのは私がそう受け止めてるという意味です。これは、単なる保守的な感覚かもしれません。結論としては、リアルな経験、リアルな媒体が持つ奥深さ、全体像を知ることとそこへのアプローチ、そして、リアルな人間のコミュニケーションというものへ結びつけていく方向性、そういう形で電子媒体が位置づけられる、そういう図書館になってほしいと思っています。それをどういうふうにつくったらいいかということこそが建築の課題なわけです。皆さんご承知のように、次の世紀に向けてIT産業というのは、日本の国を興していく一大産業というか、それこそ目の玉が飛び出るような兆の単位の金がこれからの次の世紀に向かって投じられていくわけですね。デジタル化できるものは何でもデジタル化しようというふうにその波がどんどん来ると思います。そういうことに対するある種の危機感をは我々は持つべきだと思いますし、図書館も漫然とただ流れていくだけでは、あるいは不安感をもって流されていくだけでは危ないと。もっとリアルな本との接触、リアルなコミュニケーションの重要性と魅力というものを強くアピールしていくように運営し、誇りをもってやっていかないといけません、という感じがすることを申し上げて私のレポートと致します。

小野田
ありがとうございました。これで一巡して、いろんな話が出てひろがってきたんですが、確認だけしたいと思います。情報の話がいろいろ出ましたけれども、その情報を受け取る側のリテラシー、受け取る能力の話について質問させて下さい。先ほど久恒先生がニーズとおっしゃいましたけど、例えば、竹村先生がプレゼンテーションをされた話っていうのはニーズが潜在化してるわけですよね。そういった場合のそのニーズというのはどういうふうに扱ったらよろしいんでしょうか。

久恒
その議論の流れで電子化に関連することとして、私この1年半前にホームページを作ったんですが、これで人生が一変をした経験があります。それは結局深く処理をしたもの以外は頭に残らないっていうことじゃないかと思います。私は情報の専門家じゃありませんが、インターネット関係の議論はほとんどマニアックな人が一方の極にいて、もう一方でITがわかった評論家がいますけれども、実はこの真ん中が抜けていることがわかりました。普通の常識を持った人たちがこのインターネットなり情報化に入ったときにどういうふうに人生や生活が変わるのかっていうことについての議論が今のところなかったんじゃないかって思ってます。実はその議論は個人図書館の時代とも言えるわけです。公共の図書館もリンクできるわけですが、自分の過去の仕事とか生活とかあるいは歴史とか全ての仕事が全部自分で手に取ることができるという時代に入ってると思います。で、例えば、私のを見ますと、全部図解でウェブができてるんですけども、最近は現代のお墓みたいなものだなというふうに思ってるんです。例えば、普通亡くなると、息子とか娘が出てきて、毎朝開いてですね、お父さんの元気な姿を見てチーンとたたくわけですけれど、僕の場合は人とのやりとりがほとんど残ってるという状況ですので、自分の脳の中が見えていくっていうか、あるいは成長する自分史であるとか。自分が自分の人生を把握してる感覚を持てます。そうしますと、今度はたくさんいろんな人に来て欲しいと思うんで、いろんなお願いをしたりですね、いろんな工夫をしていくわけです。その中で自分がどんどん広がっていくっていうことを今経験をしてます。最終的にですね、時間がどんどんできていくわけですが、能率が2倍になってかつ、付き合う人は3倍くらいに増えていくわけです。ここで大事なのは無駄な時間が減っていったってことでして、残った時間は大切な人とゆっくりしゃべったり、あとはほとんどの情報が手に入るので、それを整理して表現をする力があるかどうかっていうことが本当の学力の問題に入ってくると。そういうふうに考えているので、私はこの情報化の流れをですね、公共的な分野以外にもですね、個人にとってもっと使うべきではないかと、こういうふうに考えております。ちょっと違う方向に行きましたけど。

小野田
今おっしゃったお話を質問につなげると、個人の歴史を記録して視覚化していって、さらにリスト化して共有できるようなそういう部分で情報技術には可能性があると。そうした個々が根源的に持っている所からニーズの話を考えていくとよいのではないかということだったかと思います。その場合のニーズは極めて個人的な体系の中でしか存在しえないものだとしたら、そのニーズっていうのは先生が今日示して頂いた公的施設の運営施策におけるサービスニーズとはちょっと別な可能性ということなんでしょうか?でも、竹村先生がフレーズしたものなり桂先生が示されたものとも関係づけられそうですが・・・?

久恒
もちろん、それぞれ個人の体験が深くないとダメでしょうね。あとは定量的ないろんな部分での現状把握はたくさんありますけれども、僕はこれまでのそうしたやり方はあんまり成功してないんじゃないかと見ています。特にあの、施策を展開する場合はですね、定性的ないろんな声をよく耳を傾けながらその中でその特殊回を毎回毎回作っていく。で、その中で全体的なこの蓄積の中で新しい考え方が生まれてくるというふうに考えてます。

小野田
なるほど。そうすると今度は意思決定者なり、そういうキーパーソンのリテラシーの問題かなということになってくるんですかね。竹村先生、お願いします。

竹村
そういう言い方はちょっと久恒さんにちょっと酷なんじゃないかなと思うんですが。ニーズには既にあるニーズと作ってくニーズってのがあると思うんです。ソニーの盛田さん流に言うと、ソニーはニーズを作るんだっていってますが、新しい製品が出てきたときに初めてそこにニーズが可視化されるのであって、こちらのご研究の何か落ち度でも何でもないと思うんですけども、やっぱり本にそのまま情報が張り込めるとか、本にいろんな見えない人々の思いとかハイパーテクストがつながっていたっていうことは今までの物理的な本が本として完結していた時代にはなかなか考ええなかったことですよね。でも、潜在的にはつながっていたと。それがまぁこういう時代になってインターネットという感覚で基本的にはインターテクストでつながっているんだっていう感覚が共有されてきたのと、バーチャルとリアルを繋げる技術が出てきたことで、そういうニーズを可視化することもできるようになったということだと思います。そういう新しいニーズの創造をしていくってこともメディアテークみたいな新しい情報施設の役割なんじゃないだろうかと感じています。その意味では久恒さんと私の説明は相補的な関係にあると思います。新しい形のニーズの創造ということになると、新中間産業っていうのが重要になってくるんじゃないかと思うんです。経済学でよくインターネットになるとみんな直接経済になってメーカーから直接買える。中間の卸売り業とか小売りとか全部すっとばされて中間がなくなるっていう、間接から直接になるっていう話ばっかりされるんですけど、そういう時代になればなるほど、逆に新しいタイプのミディエーター、中間産業が必要になってきます。簡単に言えば、もう情報洪水で商品だってなんだってもう人々が触れられる情報が膨大になりすぎますから、その中で何がホントに価値のある情報なのかとか、それから情報の信用度がどこまであるのか。例えば、有機農業の野菜ですといってもどこまで信用できるのか。そうすると、第3者的に信用を担保していくようなセクターが必要になるとか新しい形のミディエーター、中間産業が必要になってくる時代だと思うんです。じゃあ、中間産業が扱うものっていうのは何かっていうと、僕はメタ情報だと思うんですよね。つまり、情報が多すぎるんで、その情報の何に価値があるのかっていう情報についての情報なんです。それから、この情報は信用できるのかっていうのも、それもやっぱりメタ情報です。みんな本屋から本を買えるし、インターネットからもとりよせられるんだから、図書館が情報そのものを提供したってしょうがないわけです。新しい図書館が扱うべき情報っていうのは、逆に、その情報をだれだれがどう読んだの、それからだれだれだったらその情報をどこに結びつけるの、っていう情報に関する情報そういうリンク・リンケージという意味でのメタ情報を扱う新中間産業・セクターがこれから必要になるんじゃないでしょうかと言いたいわけです。

小野田
そうですね。私も全く否定的なわけではなくて、むしろ、久恒先生は普通だと利用者のつまらないアンケート集計みたいなものに埋もれてしまうところにメディエーターとして参画されてそれを加工されて提言にまで加工されているわけですね。そうしたメタ情報サービスがこれからの図書館の担うべき方向だというのも興味深い指摘かと思います。竹村先生今ご発言あったんで、栗原先生にふってみたいと思います。先生の方いくつかご発言がありましたけれども、その中で普通の図書館の上にデジタルライブラリーがのっかるということをおっしゃいましたが、具体的に先生の中ではどういう形の図書館としてイメージされてらっしゃるんでしょうか。

栗原
それはここに書きましたように、機能のレベルでののっけるという話で、それを建築的にどうこうするかというところの提案は別にしてないわけです。ここに書いたことはそれほど大きなことではなくて、こういう機能を重ねるべきだというだけです。しかし、もう一つのサロンという話は少し空間的です。これまでのように本と人が互いに閲覧して接するというだけではなくて、それが論として展開していくようなもっとサロン的な空間を十分用意して、人と人との結びが深まっていくようなそういう仕掛けを作る、その仕掛けを促進する形でインターネットやなんかが引き出せるようなものをどんどんまいてくるという話です。具体的にスペースをどうこうとかいうのは次の段階だと思っています。

小野田
私がお伺いしたかったのは、例えば栗原先生が大変精緻におやりになった地域計画研究ですね、図書館をどういうふうに配置したらいいかとかっていうのを、図書館の受持率とかいろんなデータの中から精緻にこれぐらいのこういう配置をしたらという話をされていますけれども、前提となる図書館の機能自体がそういうふうに動くわけですよね。そうすると、その圏域計画論ですとか地域計画っていうのはどういうふうにそのズレをサポートしてったらよろしいもんなんでしょうか。

栗原
少なくともデジタル化された部分に関しては、県立、市立、中央、分館という、いわゆる図書館のヒエラルキーは全く意味を失うと思います。

小野田
全くですか?

栗原
基本的には失うと。けれども、私はリアルな現物資料の重要性をサポートしてる立場ですから、その部分において、私はそのヒエラルキーはずっと残るだろうと。早い話、我々の日常生活においてごく身近な物はコンビニで用を済ませるけれども、もうちょっと・・・というものは都心へ出ますね。それと同じことでして、ごくポピュラーな物は近くでまかなうけれども、もう少しきちんとした深い現物の調べ物をしたい時にはもうちょっと上位の所へ行くという構造は変わらない。現物をサポートする立場からはそこは動かない。ただし、付加されるネットの部分だけについて見ればそういうヒエラルキーは無意味だと思います。そういうものをいかに引き出すかということについてのライブラリアンが市民の面倒をみてくれるとすればという前提つきですが。そういうものに長け、専門的なエリアもきちっとサポートしてくれるような職員が末端の全てに配置されるとは思えない。そうするとやはりそういうスキルの長けたライブラリアンはやっぱり中央館に配置されることになるだろう。したがって、やはりそういう意味のヒエラルキーは残るだろうと思います。

小野田
わかりました。桂先生が最初に秩序と開くネットワークの秩序という二つの面が図書館にはあるんだという発言からずーっとここまできたわけですけれども、これまでの先生方のご発言からもう一度その辺の基本的な議論を整理して少しコメントいただけますか?


僕が言いたかったのは、今までの並べる秩序っていうものも否定できないし、それから関係性の秩序であるメディアとかメディアのネットワークっていうもの否定できない。それで、僕図書館に関して言えば、新しい図書館とかうんぬんっていう議論自体がナンセンスだと思ってます。つまり、今までのトラッドな図書館の充実がやっぱり先です。これまでの図書館サービスの是非を問う前に、新しい図書館の話をしても全く意味がないんです。しかも、電子図書館とかデジタルライブラリーとかっていうのはもはや図書館とは関係ないわけです。あれは情報システムのアプリケーションのひとつに過ぎない。図書館でもなんでもないです。だから、そのアプリケーションの話といわゆる図書館のサービスの話ですね、実施サービスの話を比べてもほとんど意味がないと僕は思ってます。
それよりも、いわゆる図書館サービスで僕が今まで一番欠けてたのは何かっていうと、並べることにみんなオタクになりすぎてたということです。図書館員の方いらしたらごめんなさい。ずいぶんいろんな方と図書館員の方と付きあってきましたけど、やはり並べることにオタクになりすぎたというのは認めるべきだと思います。それで、そのことがどんなに実施サービスすなわちユーザーっていうものと距離を大きくしてきたということをもう一度問い直していいと思います。それを問い直すことは本の持ってる権威とか信頼感とかに対してもう一回問い直すチャンスになると思うんです。
やっぱり権威と信頼感っていうのは一番の問題で、図書館のことを考える時にはもう一度図書館員というものの専門性を問い直してほしいと思います。で、つまり、情報うんぬん、ネットワークうんぬんになろうがなるまいが、今までの資料は捨てるわけにはいかない。もちろんそれに対するニーズもある。それをまた充実させていかなければならない。それはデジタルも含めてです。そういうことを含めて、今の図書館員で果たして20〜30年この時代の変化の中で対応できるんだろうかと。専門性の問題というのは怪しくなってきてるだろうし、今25歳で図書館員になった人が定年になるまでずーっと同じ図書館にいて、あと35年とか45年いるっていうことだけ考えてもゾッとしますね。それは単なる倉庫番って言われてもしかたがない。だから、僕は図書館の問題を考えるときにはどうしても切り離せないのは、やっぱり図書館員、司書って言ってもいいんですけど、図書館員、ライブラリアンの専門性について根本的に考え直すべきだし、それを今までは避けてきすぎたような気がします。
さっき人の話出ましたけれども、人っていうのはものすごく大事です。メディアテークでもやっぱり何が問題かっていうとやっぱり働いてる人が一番のポイントになってるわけです。で、その中で働いてる人に僕らがいくら外で、やーや言ってもやる気がなければ意味がないわけです。どういう専門性がこれから必要になるかどうかっていう方から逆に言ってしまえば、建築、つまり器すら変えていくかもしれないとまで思ってます。つまり、その専門性が例えばね、今の医者、昔の医者と違って、情報機器メディアを駆使しますね。その時に昔の病院の建物とは当然違ってくるわけです。今ほとんど視覚的に物を見て医療診断とかしてるわけですね。そうすると、設備投資をするのと建築の設備計画っていうのはこれは切っても切り離せなくなるわけです。それと同じように、これからのいわゆるデジタル化の変化の中で、医者が今までそれに対して勉強してきたように、図書館の専門家はそれに対して勉強しなきゃならない。それは本の暖かみがどうのこうのなんて言ってる場合じゃなくて、本を並べることと、それからそういう物事が変わっていくとかっていうことを同時に考えていく専門性っていうのはなんなのかっていうことをもし図書館の業界っていうものがあるんだとしたら、そこでぜひ考えていただきたいなっていう気がします。植松先生も来てただいてるんで、ぜひ、その辺は。

沖塩
あの、ちょっとよろしいですか?
先ほど小野田先生から久恒先生にご質問があり、竹村先生が答えられた、それに関連してちょっとお話したいんですけれども。今日は建築計画委員会主催ですね。建築計画の歴史みたいなことをちょっと思い出してみると、やはりニーズの把握というものが非常に大きいと思います。建築計画学の初期の建築計画学で盛んに言われたのは、ニーズはアンケートとかそういうものによって得られるものではない、ユーザー自身が気がついていないようなニーズを引き出さなくちゃいけない、と言われました。それで病院で実際の看護婦さんの動きを実態調査してみたりとか、いろんな調査の中から隠れたニーズを探しだそうということが始まったんだと思うんですね。昔吉武先生や西山先生、栗原先生なんかもその中心でやっておられた建築計画研究に対して多少批判的な意見がひとつあったのは、例えば、図書館でも金沢工業大学の図書館ができるまでは高層図書館という研究はほとんどなかったと。ところが、ひとつそういうのができると、その後追いのように次々と研究が出てきた。どうも今までの建築計画学というのは新しいニーズに対して十分ではないんではないかという批判がありました。当時名古屋大学におられた柳沢先生が盛んに言われたことだと思うんですが、まぁあの、久恒先生が得られたようなそれはそれなりに非常に重要な意味があるんですけれども、そういう隠れたニーズに対して建築計画学も一応は取り組んできたということを若い方もおられるもんですから、補足したいと思いまして。

小野田
補足して頂きましてありがとうございました。私も建築計画学者でありながら、そこらへんのところをとばしてしまったようですね。
前半戦ではパネリストの先生方から出たおもしろいテーマを追いかける形に進行させて頂きましたが、後半戦は今までの発言の中から建築に繋げるような展開をコメンテーターの先生方にお願いしたいなと思ったりしております。
まず植松先生の方からそういう情報観についてはよくわかるんだけれども、実際現在もしくはこれからの図書館ではどうするんだとか、あと原さんなり伊東さんが前半でおっしゃってたような話はどうやってみたらいいのかとか、さっき桂さんから図書館界に対するコメントもありましたが、そういうものに応える形で結構ですので、ご発言頂ければと思います。

植松
植松でございます。わざわざお招きいただきました上に、昨日2つの図書館、図書館というか建物を見せていただきました。ここは計画委員会の研究会ということなので、そういう視点から少しお話したいと思います。しかも、フロアに若い建築設計者を目指す諸氏がいらっしゃるわけで、そういうことを意識しながらも少しお話したいと思います。ひとつは最初の例の宮城県図書館でありますが、私は言い逃げという形で申し上げれば、ぜひあれをよい県立図書館というふうにお考えいただかないようにお願いしたい、と申し上げたいと思います。まず、計画とデザインの役割分担というお話かもしれませんが、原先生が最初におっしゃった人が集まってくる図書館をつくろうというふうに原先生がお考えになった、というふうにお話になられましたが、それは計画であったり、あるいは県立図書館とか発注側がつくるべきコンセプトではないか、ということであります。これは富永先生も内的必然性からのものではないのではないかというご指摘があったと思いますが、建築家がそこの敷地に立って「ここに人が集まってくる図書館をつくろう」というコンセプトをたてるということ自体ちょっとおかしいのではないかと。それからもう一つは、私のレジュメにも書きましたが、34ページの2の・のところで、県立図書館は大きな市立図書館ではないということであります。この人が集まってくる図書館というのは市立図書館であって県立図書館はそういうものではない。県立と市立の役割分担というものがきちっと考えられてる。その結果として、計画ができあがり、それにしたがって設計が進められるべきものであると、いうふうに考えています。それから、情報化と建築っていう、まぁ情報化と図書館ということについて原先生は大変お悩みになられたというふうにいっておられますが、そのお悩みになるときに当事者としてこれから図書館を使うとか、あるいは、日頃それを考えている集団である職員側と、先生の言葉をお借りすれば、知的連鎖のコミュニケーションがとられなかったということはどういうことであったのかと、問題提起しておきたいと思います。
私は一部の職員の方からだけしか聞いていないのでなんとも申せませんが、要するに図書館側と原先生側との話し合いは一度も持たれなかったというふうに伺っております。間違っていたら後でご指摘いただければと思います。それから、2番目のメディアテークでありますが、桂さんのことを言うと、お医者さんと情報機器と病院計画の関係についてコメントされた桂さんがメディアテークのあの建物にシンパシーを感じるっていうのはちょっと話が違うんじゃないかなっていうふうに思います。要するに、要するにある種の建物をつくろうという話があって建物の設計が始まるということからすれば、当然そこに中身が、入れるべき中身があると、いうことからすれば、原先生もおっしゃいました正解は絶対にないが、最適解はありうるということであれば、あの中身が入る建物としてあの建築が最適解であったかということは問い直してもいいのではないかというふうに申し上げたい。こんなこと言って無事に帰れるかどうかわからないですね。(笑)
それから、第3点目ですが、桂さんは資料を並べるということから始まったとおっしゃっていますが、最後に、図書館員の専門性について触れておられます。これはこの場で議論するより、もっと専門的な別のところでやった方がいいんじゃないかと思いますが、少し触れておきますと、これからの図書館というものは、並べるから利用者が取りだすというところに職員というものが介在する、これがきちっと介在するものであろうと思います。例えば日本だけでも年間6万冊本がでている中からどれを買ってきて、どれを並べるのか。あるいは、世の中のインターネット上に流れている情報の中から何を選んでくるのか。そして、どこに並べるか、というのが図書館員の専門性のひとつであり、そして、何を望んでいるか、もちろんそれには先に出ていましたニーズを把握して、我が町の図書館としてこういうものを並べておけば利用者は満足すると考えること、これも専門性だと思います。それから、並んでいる資料に対してこういうものを求めたいという人が来たら、それはこの本に出てるよというようなことをアドバイスしてあげれる、これが人的サービスであり、図書館員の専門性であろうと思います。したがって、そうした人的サービスがきちっとできないような図書館というのは、相談図書館としての役割を終えて、他用途に転用されていく、というものになってしまうんではないかと思います。
最後にひとつだけ仙台市の方に申し上げておきますと、仙台市で市立中央図書館をおつくりになる計画はない、というか、現在ないわけでありますが、これは政令指定都市全体から見て、あるいは、大規模な都市の市政から見ても全く不可解な態度であって、先ほど栗原先生も情報化によってフラットな方向には向かうのだけれどある種のヒエラルカルな構造っていうのは必要だとおっしゃっておられましたが、政令指定都市である程度の情報とある程度の専門職員がそろった中央図書館をおつくりにならない、なる機運もないというのは全く不可解としか申し上げられない、ということを申し上げておきます。

沖塩
えーと、今最初に話された宮城県図書館、人が集まるというのを原さんが言われたというのは実は私がそのことについて37ページの左の真ん中からちょっと下に書いておりまして、それは、ま、人がたくさん集まる図書館だというのは、私は実際にたくさんの人が来るんでビックリしたわけですね。前の図書館の1年分の人が最初の1ヶ月で来たと。それから、今でも昔の図書館に比べると6倍の人が来てる。そういう人がすごく集まるんだなぁっていう話をしましたところ、この図書館の建設に当初関わったという県の方がここに書いてますように、極端な言い方をすれば図書館をつくろうと思ってつくったんじゃないんだ、本が好きになってもらいたいと、とにかく人が集まるものをつくりたいというのは県の側にもあったように思います。それから、あとお話したいのはふたつあります。私はオフィスの研究をやってるわけですけれども、竹村先生、栗原先生のお話を伺って、プライスウォーターハウスクーパーズコンサルタントという会社が4年前に品川の高輪から恵比寿に本社を移した話を思い出しました。移すにあたって図書室をやめてしまったんです。当初猛反対にあったらしいんですが、社長がうちは図書室はいらないんだと、それに対して職員の人たちから社長は日本IBMの副社長から来たのでコンサルタントは初めてだから、そんな無茶なことを言う。コンサルタントでは図書室はもう心臓なんだということを言ったときに、その社長が「あっ、その言葉は取り消す」と言いながら図書室をやめる計画はそのままなんです。そのかわりに、日本中、いや世界中の本屋さんを自分の図書館だと思えと。買いたい本は会社の金でいくら買ってもいいかわりに、会社に持ってくればその置き場が必要になるので、スペースコストがかかるから会社に持ってくるなと言ったんです。それから、新しいコンサルタントのアドバイスをするときに古いデータは役に立たないということで図書室をやめた。この会社は図書室なしでやってこの5年間くらいで売り上げが10倍に伸びて急成長しています。それからもうひとつ、九州の小倉に松本清張記念館という、清張が実際に使っていた東京の杉並の書斎と書庫を全部そのまま移した建物がある。膨大な本があって、松本清張のあれだけの著作にはそれだけの本が直接関わりがあったんだということを実感することができるわけですけれども、今若いコンピュータに慣れ親しんだような方が著作に励まれる時に、ホントにああいう書庫でやられるんだろうかと。先ほど竹村先生が言われたみたいに、デジタルデータだったらいろんなことが簡単にできるわけです。そういうことを考えると、本が全くないことはならないんでしょうけど、今の若い小説家だと違ったスタイルになるのか、これは議論するつもりありませんが。そんな感じを持ちました。今日お話する2番目のテーマなんですけれども、私が主にやっておりますファシリティーマネージメントに関してです。これは施設をいかに有効に活用していくかということなのですが、今も宮城県の地域振興課から頼まれて県内の文化施設いろいろ調査しております。そうしますと、県下にたくさんの文化施設があるんだけれども、大きい赤字を出し、しかも、お客が全然来ないような施設がいっぱいあるわけです。そこで一番感じますのは県の方や設計者が一生懸命に考えて優れた建物をつくる。完成すると、教育委員会にポンと渡されてどっかの校長先生を退職したような人をポンと館長さんに据える。そうすると、なんだこの建物はと、これがホールかね、こんなホール使いにくいなとか、こんなの美術館じゃないよとか色々言われて結局一生懸命にやったその意図が全く伝わらないで使われる。これはあのメディアテークも他人事ではないんじゃないか、ホントにうまくいくのかなぁと大変気になっております。これについては後で桂先生から少し「これはうまくいくよ」というお話を伺えればと思っております。

花田
花田です。午前中からずっと聞いておられる方も多いと思いますが、午前と午後で全然雰囲気が違うっていうか、午前中は建築家の方がゆっくりとおしゃべりになっていて、午後はソフト系っていうとアレかもしれませんが、そういった方々が非常に早口で的確におしゃべりになっている。この違いが建築とソフトの間の落差を示唆しているっていうか、メディアテークのケースでも溝があるのかしらと思ったりしてます。僕は建築の設計を自分でもしますし、それから現代建築のいろんな作品について少しコメントするようなことがある、そういう立場でなんで、少し建築の方の話に戻したいと思います。まず印象から言うと、宮城図書館は、植松先生おっしゃったような印象とは別にデザインの方から見ても、原先生が今朝おっしゃっていたような他者を観測して自分を知るという美しいフレーズが空間化されてないっていう印象をちょっと持ってしまいました。アトラクターっていうふうな言葉で、原さんが設定されたものが他者を観測することを通して自分を知るっていう目標の達成にほとんど寄与していないっていう感じがします。ごく単純な印象ですが、地形広場になぜ本がないのか、もしくは閲覧室がなぜ地形広場になっていないのかっていうような印象を持ってしまいました。ちょっと言い過ぎかもしれませんけど。それから、富永さんも朝指摘されましたが、森を背景にして本を読む場ですとか図書館全体を見渡すような場みたいなものの演出も足りないような感じがしています。おっしゃった本の森っていう言葉、思いとしてはもちろんお持ちなんでしょうけど、テイストがあるとしても、もうちょっと別の方法があったんじゃないななぁなんて生意気にも思ったりしてしまいました。言語を空間化したり、建築化していくっていうふうな方法の食い足りなさを感じています。それから、メディアテークに関しては伊東さんが今朝ほど裏3面ともは壁になるからガラスなのは表面だけ道路側だけなんで、コンペの模型ほどの印象にはなってないんじゃないかってご自分でおっしゃってましたけど、僕は逆にずいぶん透明なんだなぁと思いました。それはどうしてかっていうと、昨日見てまして13本のチューブのうち何本かなんにも入ってないチューブがありますね。ちっちゃめのやつはなんにも入ってない。それを見てるうちにですね、「アレ!?なんにも入ってないね。変だね。」っていうふうなことになって、「そしたらチューブはなくていいんじゃない。」っていう印象をつい持ってしまったんです。構造体なわけですからなかったら大変なことで建物は壊れちゃうわけですが、なくていいんじゃないのっていう言葉をついはいてしまったってことを逆に考えると、伊東さんが意図した透明な空間が実は出来ていたんじゃないかという感じを持ったんです。で、リアルな空間でやれることがどうも減っていってバーチャルな場でないと建築はおもしろくないんじゃないかっていうふうな傾向があるかもしれませんが、意外とそうでもなくて、リアルな方法でもまだ別の空間のあり方をつくる可能性っていうのは残ってるんだなぁっていう印象を持ったわけです。ただ、それがメディアテークっていうプログラムあるいはビルディングタイプとどう対応してるのかっていうところはわからないところでして、伊東さんも新しいドミノをつくるっておっしゃってますが、柱、はり、スラブ、そういう非常に一般性のある20世紀の建築のプロトタイプみたいなものに代わる新しい型としての一般性あるいは普遍性を担保できるほどの経済的もしくは技術的なサポートがついていくのかどうか、そのへんがちょっとどうなんだろうと思いました。
ただ、そうだとしても、ああいうある種の均質な空間を用意してたら、あとは桂先生始めとするいろいろなソフト側の優秀な方々があとを埋めていけばいいのかっていう印象がやはりどうしても残ってしまいます。そうすると、建築でできることあるいは建築の力みたいなものがかなり弱いっていいますか、手前でとらえてるのかなぁ、あるいはその方がいいのかなっていう印象を持ったわけです。建築それ自体がなんかオプションになってしまうっていいますか、普通建築家はまず建築を用意してオプションっていうか、付加される何かがあって建物が動いていくとすると、建築それ自体がもう最初からオプションとも言えるような印象を持ってしまいました。つまり、昨日現場でも阪大の鈴木さんが質問されてましたが、チューブの位置って言うのはどうやって決めたんでしょうか。決める根拠っていうのがどこにあったんだろうって思います。従来なら書庫の割とかいろんなもので建築っていうものは決まっていくと思うんですが、決定根拠みたいなものがずいぶん別なところにいったんだろうなって気がします。じゃ、それがどこなのかってことは伊東さんの口からはまだお話聞けてないし、教えてももらいたいなとは思ってるんです。原さんの図書館と伊東さんのを比べてみると、というより、メディアテークを見ていくとって、空間とプログラムの関係の方にやはり目が行きまして、資料の方に書いたのも結局そういうことなんです。古い話をむしかえすようで恐縮ですが、コンペの時の二等案、早稲田大学の古谷さんが出されたのと伊東さんとの対比っていうのが僕の中で興味としては引きずっているんです。古谷さんの案っていうのはプログラムをも解体して、その解体されたダイアグラムそのものを空間に対応づけるっていうものだったわけです。一方、伊東さんは逆にそれをしなかった。いろんなことを先送りにしたなんていわれ続けていたわけですけれど。どっちがいいということではないんですが、かなり両極端な案が出て、建築の空間の側で何ができるのかっていうことを改めて問い直すいいケースだなぁと思ったんです。あとは、伊東さんの建物はなんだか危険なところがあって、あれでいいって言われると次どうしたらいいんだろうと思っちゃうんです。この次にメディアテークと同じようなコンペがあったときに、ゴチャゴチャ建築家が考えて吹き抜けつくったりいろんなことをしちゃうと通らなくて、更に新しいドミノを提案しないと一等にはなれないのとか思ってしまうところもあります。そういうふうに思わせるっていうのが非常に危険なところですね。それで、桂さんがおっしゃった伊東さんへのシンパシーってあたりが建築家としては興味があって、つまり、あの中にいろいろなものを埋め、使っていこうとされる立場に立つときにああいう空間が最適解だったかどうかっていう先生のお話もありましたけど、どの辺りにシンパシーを感じられてるのかっていうふうなことを伺ってみたいと思っています。お邪魔してる次第です。とりあえず、そんなことです。僕も答えはないんですが、建築空間とプログラムの関係をどのあたりにとらえていったらいいかっていうことをいらだちをもってみてしまったり不安になったりしてしまっているそういうふうなことです。

小野田
ありがとうございました。僕は今日は司会なんであんまり意見を言わないでおこうと思っていたんですが、少しメディアテークの話が出たので、少し補足させていただければと思います。今花田さんのご指摘はそうかもしれないなっていうふうに思いますけど、審査会場に専門委員としていて古谷案に反対をした一人なので、それを含めて言わせて下さい。先ほど桂さんの方から並べることのオタクという話がありましたけど、僕は建築計画のまだひよっこですけども研究をさしていただく傍らで建築計画者という日本では聞きなれない実務をやってるんですけども、そうなると、職能は機能を部屋として割り付けて配置していく。言ってみれば、部屋と廊下の動線空間を並べること、いわばパッチワーキングをどうしても志向してしまう。それはまだ僕の力が足りないからかもしれないけど、どうしても並べることの、オタクになってしまっている。そういう状況に困難性を抱えてたとき、古谷案が出てきて、短冊状に機能を細かく切り分けてしまって、それをジグソーパズルのように組み合わせたラビリンスのように、つまり並べるオタクの究極までいくとこうなっちゃうのかなと思ったんです。建築家が投げ込んだ組み合わせをこれ受け取る側つまり運営側は花田さんは反論あると思いますが、その時の僕はですね、追いかけるだけで終わっちゃうだろうと思ったわけです。そうじゃなくて、人と情報のパッケージの間に何かを発生させるようなそういうこう、やわらかいものを追い続けるような、そういう可能性っていいますかコンペの前、最初に僕たちが4つのビルディングタイプを解体したときに、可能性として感じていたことが見えなくなってしまうと思ったわけです。ギャラリーとバリアフリー情報センターと視聴覚情報センターと図書館、その4つのビルだったんですけども、その4つを並べて、よく考えると、全ての中にアートと情報が入ってて、アートと情報の濃度がだんだんにこう、グラデーションしてるだけじゃないか。それをでは、一体化してこう、やわらかく包むようなそういうビルディングタイプっていうのはあるのかなぁっていう話です。それで、磯崎さんと話してるうちに、「メディアテークとこれは呼びたまえ、きみ」みたいなところからバーッとつっぱしっちゃったところもあるわけです。そこらへんの過程は23ページで佐藤泰室長がまとめておられます。そういう中で僕は伊東さんの案の平面が持ってる可能性っていいますかね、逆にパッチワークをしない。もう、手を縛られて建築計画をしろと言われてるようなところに、これは難解だけど面白くなるかもしれないと思ったわけです。どうして難しいかというと、そこで可能なのは人のアクティビティーで機能を担保していくしかないわけです。もうディフェンスを思いきり、普通は部屋の壁という存在をもって機能を担当している。つまり、サッカーで言えばディフェンスラインが結構前にある。でも、メディアテークではサッカーやるにしてもディフェンスをつくってるようなもんなんですけども、それが、思いきり下がって床とそこに投入されるプログラムと家具とか空気の密度とかそういうあいまいなものでしか機能を担保出来ない。これは苦悩以外何ものでもありません。けれども、そこにある種の可能性があるんじゃないかなと、コメンテーターの先生方にこういうことを言ってはいけないんですけども、僕らにとっては古谷案と伊東案の見方っていうのはちょっと違ってたし、既にそこにはいないという。ゴール前でしゃにむにボールを追ってるそんな感じではあります。そういうことで柱の位置なんかもこれだけ広く自由な面がフィールドとして確保できるんだから、もう環境化して、芝の荒れ具合とかフリースローでどこからボールが入ってきたかっていう感覚しかないですね。司会の分を逸して脱線してすいません。本題に戻りましょう。欠席裁判みたいのもあれなんで、植松先生の爆弾はちょっと後にとっておいて、わかりやすいところから入りましょうか。花田さんがふっていただいたおもしろい話の中で、桂さんがなんでシンパシーを感じていくのか、っていうようなところがあったと思いますけども、桂先生そこらへんのところ、もうちょっとコメントしていただけますか。


はい。えーと、僕のシンパシーはわりと簡単で、あの、ゆるさです。ゆるさが非常に僕にとっては魅力でした。さっき並べるっていうことについて述べましたが、それはものすごく精密なことで今まで考えられてきたわけです。小野田さんも感想を言っておられたように、ここではそうじゃない。つまり、あいまいな中で何かをしなければならないっていう宿題があったものですから、これは2001年のオープン時のイメージの解ではとてもじゃないけど、5年、10年は持たない。そういう意味も含めてですね、伊東さんがちゃんと解答をだしてるんだろうということを僕はやっぱり感じました。僕は未来に対する近似解かもしれないけれども最適解ではないと思ってます。少なくとも2001年1月のオープン時で、あの4階、5階に図書館が本を並べてサービスを始めるっていうことは最適解ではないと思ってます。ただし、仮に5年後、10年後に中央図書館ができた場合、あそこをどうやって使おうかって言った時に、今度はあのメディアテークの建築は逆に生きてくる可能性があると思います。だから、そういう意味でのゆるさに僕は非常にポジティブに思いましたし、だから、メディアの透明性うんぬんとか、文学的なことじゃないんですよ。ものすごくプラクティカルな面で、あのゆるさっていうのは今後の激しい変化に耐えうるデザインだろうと思ったということが一番のシンパシーの中身ですね。

小野田
非常に簡潔にお答え頂きありがとうございました。僕なりに繋げて言うと、あいまいさと同時にプラットフォームの強度みたいなものがあるような気がするんです。これはメディア自体にも拡張して言えるような気がしています。例えば、竹村先生の本の上に見えないポストイットが貼られていく話がありましたが、ポストイット貼られてみんなの思念が蓄積するそのプラットフォームたりうる本をちゃんとつくるっていうのは大変だなぁと感じました。さらに、ポストイットってある意味で善人システムのような気がするんです。この場合、ポストイットを貼る作法が共有化されているところで成立する気がするんですが、果たしてそれを社会に期待できるかとも思うわけです。プラットフォームの強度と作法に対する疑念について、少しコメントを頂ければ・・・。

竹村
いや、とてもシンプルなんです。本っていうのは何か本質的に付け足したくなる。つまり、完ぺきじゃないってことです。インターネットのメールとか情報のやりとりしてる方々はよく経験があると思うんですけど、隅から隅まで書かれたフォローのしようのない完ぺきなメールが送られてきたときは反応のしようがなくて、なんか舌足らずで言い足りないようなメールに限って何か付け足してあげたくなるみたいなとこってあるんです。今はある意味で情報の余白を人が埋める。みんなで補充して情報を織り上げていくスタイルが非常に一般化してきていますが、本来本もそうなんです。本を書いた人なら当然わかっておられると思いますが、自分のオリジナリティーなんてのは1%、2%。ほとんどが過去のテクスト情報の引用であったり、引用と意識しなくても日本語という膨大な言語空間であったり。人類のテクスト空間からの編集でなりたってるわけです。ですから、その余白につぎ足して本というのは書かれてるわけで、同じことをやるだけのことなんです。本の強度なんて言わなくていいんです。本は弱くていいんです。弱いほうがどんどんいろんな人が付加していく。で、それでみんなで到達していけばいいというだけのことで、本はしょせん触媒であると思っています。
それから、善人システムの話について言うと、これもネットコミュニケーションで当たり前のことで、困った分子がいるのは当たり前なんです。そういう分子もあるコンテクストにおいては必要だったりする場合もあるでしょう。けれども、迷惑だよっていう場合にはみんなの圧力で排除するわけです。それはどんなネットコミュニティーでも行われてることで、「この書き込みはやめて下さい」とか、あんまりそれが続くとその人は排除されていく。ですから、やっぱりみんなで育てるっていうことは、こういう書き込みをする人を、あるいはこの書き込みは消しましょうっていう、やっぱりボランタリーな動きが必要だとは思っています。では、そこら辺を誰が管理するかというと、究極の管理者はいないと思います。
さっきから気になってるのは図書館学の方々ってやっぱり膨大な蓄積があってプロとしての誇りがあられるんだと思うんですけど、たぶん図書館学の側の先生方よりもうちょっとはユーザー、図書館ユーザーが図書館をつくってくっていうふうに考えてる部分があるんじゃないかと思うんです。図書館学の専門家の必要性なんてのは疑うべきもないんですけど、今まで図書館の司書が全部やってユーザーは受け身で読むだけです。でも、これからもう少しアクティブに関わってくんだろうと思いますから、そういう意味でみんなで善と悪を緩やかなプロセスでやってく、それしか解はないんではないかなと思ってます。


僕はちょっとそれはね、認め難いんですよ。なんでかと言うと、患者が病院をつくることになっちゃうからです。具合が悪い人が具合が良くなるように病院をつくるっていうのと一緒で、それ無理があると思います。、そういう時には必ずなんらかのマネージメントしたり、エージジェントにならざる得ない人が出てくるわけで、いくらさっきの僕があげたネットワークのコミュニケーション、リナックスのオープンソースの例でも、やっぱりみんなが等価な労働量で関わっているわけじゃないんです。誰かがやっぱり相当な労働量を負って、持ちだしをして仕事をしてるわけです。やっぱり何が大切かってレスペクトですよね。それに参加してることがすごく楽しいとか、すごくおもしろいとか、そういうことがない限りあり得ないでしょう、現実には。みんなでっていうことは簡単なんですけど、僕はね、逆に混乱の原因になるような気がする。やっぱり何が楽しいのかとかそれで非常に誇りを持てるのかっていうプログラムが出せない限り、ボランティアベースにうんぬんっていうのは危険だと思います。

竹村
いや、100%賛成です。僕もそういうことが言いたいんです。ただ、そういうコーディネーターになる役割が図書館の司書から100%出てた時代から10人のうちの2人ぐらいはひょっとしたら民間から出るかもしれないということです。言いたいことが他に2つあるんです。ちょっとコメントさせて下さい。どうしても外部者から聞いていると、ここ建築関係者ばっかりでしょうからアレなんでしょうけど、計画とかニーズとかソフトよりの議論とそれを実現していく計画とかデザインっていうときに、いきなりハードデザインになっちゃってる。本当はその間を繋ぐもっと分厚いデザインの領域ってあるはずなのに、そこの議論が出てこないんですよ。
わかりやすい例で言いますと、同じ街でも歩いて経験するのか、自転車に乗って経験するのか、自動車に乗って経験するのかで全然違いますよね。それを僕はワークウェアって読んでるんです。例えば、自転車というワークウェアでもって経験するとか、自動車というワークウェアであったり。そのワークウェアのデザインっていうことが実は日本文化って結構分厚かったんです。例えば、空間はセットしないで、ちゃぶ台をおけば食堂になる、布団をしけばなんとなるって具合に。つまり、ハードがソフトから切れていなくて、その人間の行為、ワークウェア次第で、ハードの意味とか空間の意味とか機能とか構造も全然変わってくる。少しそっちの方によってきたのが今回のメディアテークの計画であったんだろうし、ちょっと意地悪な言い方をすると、日本の伝統からすればずっとここ100年してた目隠しを外しただけなのかもしれない。けれども、それを近代建築の中でおやりになるのは大変だったでしょうから、リスぺクトしますけども・・・。ワークウェアのデザインがデザイン領域としてもっと大きくクローズアップされていいはずなのに、どこの建築学科にもどこのデザイン学部にもワークウェアのデザインを明確に意識した教育もなければそういうジャンルもないんですよ。そういう意味で、例えば同じ図書館の空間でもどんなふうなワークウェアでナビゲーションしていくのか、そのテクスト空間を生成していくのか、ということがすごく大切だと思っていて。そのワークウェアの一例として、さっきのね、例を出したんです。ですから、建築の計画としてあってもいい別の形のワークウェアで同じテクスト空間を泳ぎ渡っていくことも可能だよっていうことです。
もう一点だけ言うと、ワークウェアと重なるんですけども、そういう新しい情報空間をこう編成していく時の、OSにあたるようなものはいろいろあると思うんで、これからの新しい図書館空間とか我々の情報空間の新しいOSはなんなのか考えていかなきゃいけないでしょう。全く新しいというのはもちろんないんですが、何らかの形でこの時代にあったOSを考えていかなきゃいけないと思うんです。結構おもしろいヒントっていうのは伝統の中にもあったりして、今、日本の伝統空間の話をしましたが、最近僕お茶を再発見してるんです。何の話かと思われるかもしれませんけど、実は茶道空間とか茶室っていうのはですね、そういうワークウェアとか今日言った属人的なリンクをこう、うまく編集していくOSの塊だったりする。例えば、利休好みなんてのを聞いたことがあると思いますけども、ものそのものの価値よりも、これは誰好きで誰が持っていたものといった属人的な履歴が全部その意味、隠れた意味となって
編集されていき、それをちゃんと意味として引き受けた人々がその空間をいい形で読み解いていったり、経験していったりする。ある意味では、茶器にしても花にしても掛け軸にしても見えないポストイットなんですよ。見えないポストイットが貼られていて、そのポストイットをクリックして開ける教養というか情報を共有してる人にとっては非常に豊かな情報空間であるし、和歌のデータベースを共有してるとあるところをクリックすると、その名所にちなむ和歌のデータベースにバーッとリンクしてったりする。そういうハイパーリンクを秘めた空間であったりはずです。茶室空間というのもそういう形の情報空間として見直してみることによって、今の近代建築とか近代デザインの中にはないノウハウとかOSが見えてきたりもすることもあると思います。これは僕自身が自分の大学でこないだ内田茂さんの現代茶室を展示しながらその中のしつらえをいろいろインターネットも絡めてやったりする企画をやって、ちょっと実験的に自分でも試みてるところです。

花田
今おっしゃられた建築サイドの人間はハードとソフトを区別しがちだという点について一応補足というか、弁解しておきたいと思います。僕もそういうふうになっちゃいけないなぁと思ってるんです。やっぱり新しいビルディングタイプとかプログラムっていう問題はその、建築の方で興味を持っているのは、例えば、ヨーロッパでデパートが発明された時に、ダイナミックに20世紀の新しい生活像が生まれていた。卵と鶏のようにどっちが先だったかっていう問題はあると思いますけど、建築の屋根を三角にする、壁を赤くするというデザインじゃなくて、ビルディングタイプとしか呼べない何かが新しく発見された時に生活が大きく動いたふうな感じがあるので、デザインを色や形というよりはむしろ新しいタイプの建物と呼べるものになってるかどうかっていうふうな目で評価したいという思いがあるわけです。だから、メディアテークっていう名前を最初につけたっていうことに小野田さんが大変こだわっておられるのも重要なことだと思うんです。ただ逆に言うと、結果を見てからホントは評価しないといけないんだろうとは思うんですけど、最初からもう変わったぞって言ってるようなところがありますね。さっきちょっと不安だとか危険な感じがするとかいう気弱なことを言ったのは、伊東さんのメディアテークを見るかぎりチューブの柱に関しては大変新しいんだけど、従来の均質な空間であるオフィスビルと違うと言っていいのか、同じっていうふうに批判しないといけないのかというところが悩ましいですね。建築の人間としては、あれでいいんだって言われると、じゃオフィスビルの中で同じことはできないのかっていう風にも思うんです。つまり、あそこで開発されたのは新しいメディアテークってビルディングタイプにふさわしい空間ではなくて、要するに新しいオフィスビスなんじゃないかっていう感じすらしてしまうわけです。なんかそこんとこが気になっています。

小野田
ホントにオフィスビルとどう違うのかっていうのは完成してから議論すべきと思いますので、ここで引き取らせていただきたいと思います。先ほど、竹村さんの方からハードデザインだけでワークウェアデザインをこれまでどの程度やってきたのかという問いかけがありましたが、これは大事なポイントだと思います。ここに頼もしいお三方の大先輩が上がっておられますので(栗原、沖塩、植松)、いわゆる建築計画が研究なり、実際の実務の中で、ワークウェアのデザインとどのように関わってきたかについて、簡単にコメントいただけますか。

沖塩
ちょっと明解なお答えはできないと思うんです。というのは、先ほどは歴史的にふり返って建築計画学の話をしたので、どちらかというとこれから建築計画をどうに進めていったらいいのかという辺りがみなさんの悩みだろうと思うんです。そういう中のひとつにそういうのがあるべきでしょうが、具体的にどのように研究が進んでいるかというとちょっと私もわかりません。いずれにせよ、そういうことに関心を持っておられる若い研究者は結構おられるんではないかと思います。

植松
私の体験で言えば、ていうか、先ほど申し上げたことで言えば、それぞれの図書館がそれぞれの最適解を探すという流れでありますから、常にそこには計画と実際の空間を繋ぐ作業が多種多様にあって、そして、それがなかなか論文にはなってきません。文章で言ってることと、実際つくってるものが違うじゃないかっていうような話になることも多いのであんまり公にしたくない部分もあったりするわけです。でも、実際には非常にそこのところが、やってても面白いし、一番大事なことだとは思っています。

栗原
計画の研究的な部分は、言ってみれば、その計画にかかわる機能や関わる人間のビヘービアをどう捉えるかということを把握した後に分析して実態を明かして次の計画へ向けての示唆を出していく。そういうことだと思います。けれども、示唆があったからそれが直ちに空間に繋がるかということはないわけです。つまり、この機能はこういう意味・性質を持っているということを空間に翻訳するような形で伝えているというところまでで、いわば必要条件なのです。それが空間になるためには十分条件が必要なわけで、全くデザイン固有の領域なわけです。繋がらないからそこをやってないというふうに言われるとそれは違うんじゃないかと思うわけです。ここにおられる方々でも人間の行動をしつこく追いかけて解析しておられるような方々もたくさんおられるわけです。建築の計画の研究っていうのはそういう性質だということでよろしいかと思います。
せっかくコメンテーターの先生方から貴重なコメントをいただいてますので、私も2つの図書館に関連してちょっと申し上げてよろしいでしょうか。宮城についてはやっぱり私は植松さんの指摘が一番重要だと考えています。宮城に関して設計者が力を込めて語られたことは、まさに市立図書館としての像であって、でも、そういうものが建ってしまうということは、おそらくまだ宮城も含めて日本全体で県立図書館を立ち上げるだけの基盤が熟してないってことなんだろうと思うわけです。たぶんあそこにいっぱいにぎわってるほとんど全部は仙台市民だろうと思います。つまり、いずれ仙台市に移管して仙台市立図書館としていったらどうかというふうに思っております。で、もう少し熟成して宮城県内の都市も立派な魅力的な図書館をつくっていった段階で、改めてそういう多くのリファレンスに応えるような仙台・・・じゃない、宮城県立図書館をどこかにおつくりになるようなプログラムが持たれればなかなかおもしろいなと。それから、メディアテークに関しては、ま、これは各階の階高も非常にはっきり変えておられて、2、3階、一部4階が図書館、5、6階がギャラリー、7、階がスタジオとハッキリ区分がわれていたのがちょっと以外でした。ネーミングがメディアテークとありますので、つまり、図書館+ギャラリー+スタジオではなくて、メディアテークだと、こうおっしゃるからには各層の間のですね、関連性というか、誘発するようなしかけ、例えば、図書館とギャラリーの関わり合い、ギャラリーとスタジオの関わり合い、あるいは、図書館部分とギャラリーの関わり合いが、例えば、チューブというような仕掛けを通してですね、伝わってくるとか、メディアテークと名付けた、そのところの働きを見せて欲しいなというのが、私の期待するところです。

小野田
非常に重要な点が提示されたと思います。直接の運営者というわけではないのでお答えにくいかもしれませんが、前半の宮城県図書館の位置づけについては久恒先生からコメントを、後半のメディアテークの展開の連携については桂先生に簡単に答えていただけるとうれしいのですが、どうですか?その後、会場の方から質疑、に移りたいと思います。じゃぁ・・・。

久恒
今のお話なんですけど、さっき植松先生が非常に重要なことおっしゃってました。発注側がコンセプトを出していないじゃないかっていうことで、これが基本的にはいろんな公的施設の大問題だと僕は思っています。実は、行政改革の時、アンケートをとりました。今後どういうことが大切ですかっていうことを県民に聞きますと、県民ニーズの把握と出るんです。市町村長に出すと、同様に県民ニーズの把握と言ってます。ところが、県庁の職員にアンケートとると1位が予算、2位が人事、3位がニーズの把握となってます。だから、このギャップが非常に大きいんですね。したがって、県はニーズについて十分な把握ができないという体質的なものがあるんです。一方ですね、県や市町村の人にもっと深く聞いてみると、実はニーズの把握に自信がないという感じになってくるんです。自分がやりたい仕事があるときにそれに合わせた声を拾ってきて、でっちあげるって言うと言葉が悪いのですが、そういうことになっているんです。つまり、宮城県図書館は実はちゃんと発注はできなかったっていうことではないでしょうか。ここは非常にポイントで、それぞれの部門があるいは行政全体としてそういう能力を開発していく途上にあるんだと思います。行政力っていうのはそういうことをやっていくべきじゃないかと思うんです。例えば、県知事とか市長が選挙で変わると、全く違う政策打ち出してきますよ。僕あれおかしいと思うんですね。県民や市民のニーズはある一定の幅の中にあるわけですから、その川の中のどちらをとるかというのはあるべきでしょうけれども、大きな仕組みが欠落してるんじゃないかと思います。
それからもう一つ、県図書館にいますとね、席が非常に少なくていろいろトラブルが起こってたり、インターネットに繋がってなかったり、駐車場が非常に少なかったり、いろんな問題があるわけですが、その問題を質問したところこういう答えが返ってきたんです。この図書館はもともと伊達藩の養賢堂の藩校の附属図書館であって、本来の成り立ちは知識人のための図書館であって、大衆を相手にしてないっていう議論でした。ちょっと極端に言ってますがね。えーって驚いたんですよね。
それからもうひとつは、図書館の中の図書館であって、県民への直接サービスは附属であるというこういう考え方がありました。そう考えると確かにあの大空間を作ってそこは空けて、席が少ない、自習室がない、インターネットを置かない、駐車場がないっていうのはうなずけるんですよ。だから逆に言うと一貫している。ただ、これを県民は知らずにお金を出したんじゃないかっていうふうに僕は思ってます。おかしいですね。だから、例えば、宮城県民図書館と名前を変えると、ぐるっと変わってくるんじゃないかって思ってます。
で、もうひとつ。結局あとは運営をどうするかっていう議論になってくるわけです。運営に関しては専門家とか行政マンは自分の知識を重視してやるわけですが、実はもうそれではすまなくなってます。県民や市民の方がよく知ってるケースが多いんです。それらを集めて、くみ取っていくっていうプロデューサー的な仕事をやっていかなきゃいけない時代に入ってると思います。そういうものをユーザーウエアとかワークウエアとか言う部分もあるんでしょうけども、それを今後、あらゆるセクション、あらゆる部門の専門家はそれをもっていかないと。結果的におかしなものをたくさんつくっていくことになると感じています。

小野田
ありがとうございました。かなり核心をついたコメントかと思います。栗原さんのおっしゃった拠点館というか、県立の役割をどうするのかという施設サービスのヒエラルキーの話についてはこの場ではなくてもうちょっとしっかりと議論する必要があるかなと思います。では、メディアテークに関する質問について桂さんどうですか?


垂直方向に動きうんぬんの話しはこれはもう最初から非常に大きな問題だったわけです。ただ、僕はここで明快にこれをやるから垂直方向に動きが出ます、それからこういうふうに関連性が明確なので並べるほうがたぶん嘘になると思います。なんでかっていうと、これから行われることにいろんな多様性をもたせようとするわけで、はっきり言ってどうなるかわからないわけです。ただし、僕は建築計画を目指す若い方々に言っておきたいのは、特に日本の場合ですけど、オープン時の一点豪華主義っていうのはとにかくまず頭から外して欲しいということです。つまり、僕がずっと最初から言い続けてるのは5年後10年後と変わり続けれるようなプログラムとかアクティビティーが起こせるような仕掛けを最初の初動時にとにかくやればいいわけで、最適解を議論してること自体、僕は計画としてはやっぱりおかしいと思うんです。つまり、続けていけるだけのプログラムを用意できるのが僕は建築計画であり事業計画だと思うわけです。こういう公共公益施設の場合はどうやって継続し、それを少しずつでもいいから認知してもらってうまく使ってもらうかっていうことも含めて、僕は建築計画であり、事業計画であると思うので、オープン時、竣工時の一点豪華主義っていう今までの考え方はぜひやめたほうがいいと考えています。そこで、竹村さんがおっしゃった継続的なワークウエアの研究っていうことが出てくるんだと思います。そのくらいのことしか今は言えませんけども、これから具体的なプログラムを用意して仕掛けを少しずつつくっていくので、オープン以降に向けて僕自身も期待と不安を持ちながら見ていきたいとは思っています。

小野田
継続的ワークウエアという話が出ましたが、竹村さんどうですか?

竹村
だからこそ、その継続のための最大の原動力、エンジンは結局、市民一人一人がコンテンツになるっていうことだと思うんです。さっき言ってた様に。つまり、場を与えられて、「はい、やって下さい、市民参加。」っていう今までの言い方ではまだ弱くて、久恒さんも市民の方がよく知ってる部分があるっておっしゃってたけども、そんな事は大学の教師なんてやってる人は最近みんな感じてることだと思うんですよ。教師の方が知らないようなこともたくさんあるわけです。そうしたときに、教師というのは知識の提供者ではなくて、2割分くらいはコーディネーター役にならざるをえない部分が出てくる。だから、当然図書館の司書っていうのも含めてメディアテークの側っていうのはいろんな人達がコンテンツそれ自身になる、職員はそのコンテンツを増やしていく活動の編集者になるんだろうと感じています。それは、別にここにいるパネラーの方々には言うまでもないことなんだと思うんですけど、こういう場ですから、市民参加というなんか腰の引けた言い方ではなくて、自分がコンテンツを作っていく、自分がコンテンツになれるようなメディアテークを作るんだということだと・・・。

小野田
ありがとうございました。まさにそういうことだろうと思います。
それではお待ちかね、クエスチョンタイムに移りたいと思います。司会の不手際でコメンテーターの植松さん、沖塩さん、花田さんに十分な発言のチャンスを与えられなかったこともあるので、このお三方を含んだパネリスト、全部で7名ですか、全て同時とお考え下さい。興味を持った発言なりコメントについて質問がありましたらどうぞお願いします。

高橋(東北大学)
植松先生に御聞きしたいのですが、図書館員の専門性について言われたときに、並べる側と介在する人的サービスとしての引き出す側ということをおっしゃいましたが、これからの図書館というのはピックアップして引き出す機能を果たさないと生き残れないと考えてよろしいんですか?

植松
そうだと思います。皆さんもお考えいただくとわかると思いますが、インターネットでも実際にいろいろ生活の中でお使いだと思いますが、例えばYahooで何かサーチエンジンを掛けても何千というのが引っ掛かってきてどの位見ているのだろうかというのがあると思います。案外インターネットの情報は役に立たない、ゴミが多いってこともあるし、そういうことからするとインターネットで流れている情報は、本当はどの位の濃度を持っていて、どの位の精度を持っていたりすることがわからない。相当不安なものになりつつある。というわけで、私はインターネットに皆が飛びつくのは暫くの間で、飽きるんじゃないかというふうにすら考えています。
例えばドイツの図書館なんかでは、どうしているかというと、自分達が信用できるサイトしか利用者にアクセスできないようにさせています。本を世の中から選んできて並べるのと同じようにインターネットもここから、こことここまでの情報なら我々が選んで信頼して提供できるからこれだということが図書館サービスだと思います。

菅(昭和女子大学)
図書館学が専門で公共図書館の勤務を経て教員になりました。建築にも大変興味があるので今回参加させていただきました。どんなハードをつくるかということである程度ソフト、中身も規定されてくると思っています。久恒さんが県民ニーズということについてお話していただいたんですけれども、私も図書館学の中で図書館サービスの質とは何かを研究しているので、興味深く聴かせていただきました。県民満足という言葉を使ってニーズの把握をお話された後で、桂さんが5年後10年後でも使える施設ということをおっしゃったのですが、今回紹介されたようなアンケートによる把握では、現在生きている人のニーズしか把握しにくいのではないでしょうか、県民サービスである以上将来の利用者となる人々に対して、例えば本を残しておくというはそういうことであるし、現在のお客さんだけではなくて、将来にわたってのお客さんの人々の事も考えてニーズを把握する必要があると思うのですが。その点について久恒さんのお考えを桂先生には5年後、10年後も使える図書館を考えたいと言われたときに将来の利用者と言う意味でお使いになったのかという辺りをお伺いできればと思います。

久恒
将来のことがわかるかどうかは大きい問題です。経験では一口にニーズと言っても今生きている人達全員のことじゃないんです。極一部です。私どもの研究では全体の3%位の所で先進的な意見を言ってきている。ところが、この層は一年毎に成長していきます。社会のいろんなところでいろんなサービスを受けているわけですから、どんどん進歩していきます。段々増えてきて1年後には9%になりその後は10%を越えてくる。そうすると今私が言っているお客さんというのは数年後を睨んだ声を出している人ということなんです。結局未来のニーズというのは良くわかりませんが、現在のニーズの中に未来のニーズの萌芽がかなりあります。そこからくみ取るわけですが、その汲取方は定量的にだそうというのではなくて、定性的によく物を見て、自分の生活体験とか様々なものを絡ませながら、議論を重ねて学習していきながら、それを掴んでいくと言う感じが最近しています。
例えば図書館ですとそういう仕組みを意図的に作って自分の顧客を良く研究するとか、市ですと自分たちの市民の声を聞いて、それから未来に向けての戦略を取っていくべきではないでしょうか。


市区町村の市民サービスのレベルに対応するような図書館サービスのレベルで言うと、最近その辺で良く行っているのは、学校との連携ですね。初等教育とか学校との連携がもっと上手く出来ると良いねとよく言ってます。ただし、ここはバリアが厚いです。生涯教育と学校教育の行政上でのバリアが厚くてトータルな意味での教育ということを図書館という場で考えられるということがなかなかありません。
ただ色んな意味での初等教育、例えば小学生は先程の将来のユーザーになりうるわけです。そういった観点からどんな機会を提供するかと考えるとともに学校レベルで把握したほうが良いんじゃないのということをここ数年言ってきています。ちゃんとメディアテークでも出来ればそういうような意味で上手く連携できたらというプログラムは何度も提出しています。将来的には、少しづつ具体的なことになっていくかもしれません。それがユーザーを育てることの一つであって、他にも未だ一杯アイディアがあっていろんなとこで起こってくるといいなと思っています。検索っていうのは未だ人の問題が大きいので、子供たちとかそういう人達を巻き込んでいくのは重要なプログラムであるような気がします。

鈴木(大阪大学)
建築計画が専門なので、場をつくるとか場所のデザインに興味があるのでお伺いしたいのですが、メディアテークにおいて具体的に多様な活動をどんなふうに設定されるのでしょうか。例えば家具とかパーティションとか。
もちろん、伊東さんはセンシティブな方で今までも色んな内部空間とか或いは色んな人と組んで家具のデザインとかをやっているんですが今のところチューブとプレートの話ししか聞こえてこないので、桂さんを初め議論の中で今までにない場の使い方とか機器の配置とかパーティションの設け方とかがあったのかどうか。一応図面の中には家具配置が書いてありますけれども、これは多分暫定的なものでしょうし。具体的なプログラムを行う上で場の設定の装置の話は竹村先生がおっしゃったワークウェアーの考え方とも一部重なるのかもしれませんが。
その辺は未だ秘密なのか、どんな議論があったのかをお伺いできればと思います。


どんな議論があったのかということをしゃべり出すと、多分今日中に帰れません。その位はやってきました。家具のデザインに関しては、もう既にデザイナーも決まってますし、別に隠しているわけではなくきちんとした形でお示し出来ると思います。もちろん引き渡しの日も近まってます。ただ、一つだけ我々が認識しておきたかったのは、さっきの継続の話しにも関わってくるのですが、家具とかサインとかも出来るだけ緩くしておきたい。色んな余地を残しておきたい、そおういう余地を残してしかもわかりやすい。ということについて今まで取り組んできました。サイン計画にしては具体的に詰めているところなので、あと数ヶ月後に明らかになると思います。

伊東
えー、メディアテーク設計者の伊東です。今日はどうも・・・。桂さんが一日かかっても足りないと言いましたが、5年間の最初の1年目に市民の人からどんなニーズがあるのかを何度もやりました。その過程でこんなチューブなんかやめちまえということもありましたし、建築家が遊びに近い形でチューブを配置して、あとはかってにやってくれというような建築家の独りよがり的なことをお前はやっているんじゃないかと激しくいわれ続けました。僕らは単にそれに反発したのではなくて、その言葉を受け止めて何百何千というプランを書きました。恐らくこれは僕自身で言えるのは、全てとは言いませんが、他の一般的な公共建築の10倍位のスタディをしています。ですから、チューブの配置にしましても何千というプランを総合して一つずつ決めていったことです。空洞にみえるチューブも設備計画上非常に重要な意味を持っています。階高にしても、何度もどこに何がいくのかのスタディをやってきめたことです。なので50cm違っても私にとっては大変問題を生じるような決め方をしているつもりです。ただ今日の話しを伺っていても感じましたが、この5年間市民のニーズと我々との間には非常に難しいものがあるなということを経験してきました。メディアテークは複合した機能を持っているんですが、利用される方々がそれぞれご自分の使うところに関しては具体的な性能を要求されるわけですけれども、それぞれの機能の間の関係については関係は出来るだけないほうがいいと皆さん一応に言われるわけです。そうではなくて、どうやってそれを結び合わせていくかという場が無いわけです。それが、その桂先生とか小野田さんとかボランティア的活動を通して少しずつ開る作業を地道に続けて今日に至っている。そういうことでそう単純な話ではないということは申し上げておきたいと思います。

小野田
伊東さんがまとめに近い話しを頂いたので助けられたという感じです。とうもありがとうございました。何か樹木のように派生してくる貴重な意見を私がこう、よたよたとナビゲードしてきましたが、本日つっこめなかった残ったところにも多くの沢山の重要なポイントがあったと思います。しかし、パネリストの皆さんの明快な語りで入り組んだ話をかなり面白くディスコース出来たのではないかと思います。何人かの方が資料の方に書かれておられますが、こういうディスコースの場がないと言うようなことを私自身感じております。伊東さんが最後におっしゃったようなギャップを埋めるためにはこういうことの積み重ねが大切だとも思います。建築計画委員会の春季学術研究会の場を借りて、今回こういうことがやれたのはよかったなぁと。それもこれも台風にも関わらずこの場に集まっていただきましたパネリストの方々、参加者の皆さん、そしてボランタリーに支えてくれた裏方の皆さんどうもありがとうございます。これで終わりですが、2次活用等を含めて活用していく予定ですのでよろしく。