建築コスト研究の歴史と背景

1909年 日本建築学会での数量公開論争
設計数量書を設計者が施工者に示すべきか否かをめぐって建築雑誌上で展開された論争

1949年〜 日本建築学会に建築経済委員会が設置される
当時、建築コスト、建築生産技術、建築統計、品質保証等の問題が議論されていた。
1964年 日本建築学会大会研究協議会
「建築のコスト」というタイトルの研究協議会が開かれた。学会誌の上で「建築コスト」という言葉の初出はこの時になる。古川修の報告「建築のコスト」(建築雑誌1964年10月号)などがあった。(その後の沿革については、本ページ末尾資料を参照。)

1993年2月 「第6回建築生産と管理技術セミナー」 コスト管理の現状
官民の受発注の立場から現状と展望が報告された。

1993年7月 建築コスト学術研究会
<研究目的>
共通の視点から建築生産のコスト/生産構造について問題を明らかにする。
<研究内容>
1) コストに関する予測手法、取引の制度・慣行等に関する概念の整理
2) 制度・慣行等に関する現状分析、国際比較等を通じた構造の明確化
3) コストの把握に関する情報の生成と流通についての問題の構造分析
1996年4月〜 建築コスト小委員会
2001年4月〜 コスト管理小委員会
2008年4月〜 建築コスト小委員会(Sub Committee on Value in Construction)


「建築コスト論」についての参考資料

「数量公開論争」についての参考資料

 今から100年ほど前、英国の建築家の協会RIBAが数量を入札の条件として設定したのと同じ明治42(1909)年に、「数量書を示すべきや」のいわゆる数量公開論争があった。これは建築家が作成する数量書を施主ばかりではなく、請負業者にも提示すべきかどうか、という論争で、「設計技師報酬規定」――その後、建築家協会が担うことになる業務規定――に関する日本建築学会役員会での議論が発端となり、学会誌上で展開されたものである。
 「もし請負者に示せば必ずその不足を訴えられて煩わしい」(横河民輔)、「示さざるべからず(示すべき)」(葛西萬司)
 論争の当事者達は工部大学校同級卒のエリートとしてそれぞれ建築界を代表する立場にあった。建築家・施工業者・実業家でもあった横川と、工部大学校1期卒で帝国大学工科大学学長をつとめた辰野金吾との共同事務所にあった建築家・葛西らによる数量公開論争は、建築家が設計図や仕様書とあわせて数量書を請負業者に示すべきかどうかという問題をめぐってのものだった。ごく簡単にいえば、葛西の論点は設計内容を補う意味での数量は示すべきだというもので、一方の横川は示してもよいが、義務づけないほうがよいとするものだった。


「建築コスト」に関連する建築雑誌特集号一覧
Last Update: 2008/7/14