日本建築学会北陸支部広報誌 Ah!37号
支所だより 〜富山〜

富山県に現存する最古の寺子屋「混放洞」の改修(1)
教育の情念が蘇える

坂井 修一(轄竏芟囃z事務所 主宰)


図1


写真1


写真2


写真3


写真4


写真5


写真6


写真7


写真8


図2


写真9


図3


写真10


写真11


写真12


はじめに
  富山の古代から近世までの文化圏が庄川と神通川にはさまれた領域であることに着目して、当該地域の社寺建築を中心として調査していたところ、標記建造物(混放洞)が私を引き寄せ、命の吹き込みをメッセージにして託してきた。そんな出会いがあった。そこで私は、混放洞がもつ教育の情念を蘇えらせるばかりではなく、建築と環境と風土とのかかわりの重要性を考えた。まずは、混放洞に新たな命を吹き込む改修について話をする。


1.概要
所在地:高岡市下山田/建物名称:混放洞/用途:寺子屋(私塾)/建物種別:土蔵
  建設年代は1856年以前、幕末期であり、今から150年ほど前である。昭和28年(1953)、石置き屋根を瓦屋根に葺き替えた。一級河川和田川の河岸段丘に位置するところに立地。近くには増山城跡があり、風光明媚なところである。段丘斜面肩に、間口3間、奥行き5間の土蔵がある。これを、幕末期から明治初期まで、私塾として使っていたという。

(図1)位置図、庄川水利用パンフレットより引用、一部加筆
(写真1)和田川上流方向


2.寺子屋概要
2-1.教育内容
  どのような教育がなされていたのか。寺子屋といえば、読み書きそろばんが定評であるが、本寺子屋は人材育成のための私塾であった。文献調査による裏づけはようやく始まったところであるが、その事実を物語る具体的な教育資料が多数発見された。なかでも、貴重な医学書、易学の文献があった。どうやら道教による教育を行っていたと推察できる。承知のように老子による道教は、現世利益の不老長寿、神仙思想、陰陽五行を中心としたものである。 これに関して、 飛鳥寛栗氏から次のような指摘があった。「当時の越中は朱子学が支配しており、道教の影響は皆無といってもよい状況と考えたほうが適切である。」

2-2.願いをこめた教育、寺子屋(私塾)の名称が語る
  なぜ当該寺子屋が混放洞と称されたのであろうか。当時の寺子屋の名称とはまったく格の違いを見るようである。仮説ではあるが、中国思想そのものからきていると思っている。すなわち、「混」とは混沌であり、「放」とは気を放つことであり、「洞」とは奥深いところを明察するところである。混放洞とは、「物ありて、天地に先立って生ず混沌盛大の奥深いところを明察するところである」といえる。また一方で、「混放洞とは身分の違いを超えて人を集め、既成概念より人を解き放し自由にする奥まった場所」、と解釈している人もいる。いまだ、藪の中にある。

(写真2)混放洞の書

2-3.この地における教育実績
  漢学者である河合平三氏は、幕末期に上記の思いをもって寺子屋を建造し、教育を行ったのであろう。ちなみに、医学書について、富山大学医学部の方にお見せしたところ、一級品との評価をいただいたが、なぜ片田舎のあの場所でこれらの資料があったのかが理解できないとも言っておられた。道教思想をバックボーンにあることを考えれば、上記の疑問はたちどころに消えてしまうものと思われるが.....。


3.建物の構造的および材料的特徴
  建物は、当地において使いまわしの材料を使い、施工されていた。以下に述べる。 ・土蔵は、二階建てのごく普通の箱型のもので、間口3間、奥行き5間である。1856年(幕末)、この土蔵を増築し、これを塾として混放洞を開いた(古文書より)。増築部は「戸前」と呼ばれる下屋のようなもので、間口3軒、奥行き2軒となっている。屋根については、本来なら本体と付け部の境で屋根が段状となるところを、一枚の連続屋根となっている。こうした外観が、一般の土蔵には見られない風情をかもしだしている。

(写真3)北側面を写す。左側(東側)に下り斜面があり、その先に和田川がある

・土蔵は通常無窓である。土蔵を塾として使うために明り取り用に、窓は西面に1箇所、東に1箇所、南面に1箇所の計3箇所に設けられている。
・戸前の二階西側は、教師の部屋であり、床の間がある。床の間は神聖なところとして、今でも家の人は敬意を表している。二階の他の部屋および1階は弟子たちの部屋となっていた。教師の声がすべての部屋にいきわたるといったところである。
・置き屋根は当時、石置き木皮葺であったという。昭和の修理で瓦葺きとなった。土屋根は野地板の上には杉皮7mmのものを二枚重ねで載せ、しなやかさをかもし出している。また杉皮の上に(スライス状の)竹小舞をひき、その上に泥を塗っている。(写真4、5)
・使用された木材については、柱と土台では「あて」を、梁には「松」を使っている。材の大きさについては、土蔵本体では8寸材が使用されている。下屋部分では5寸材が多用しているが、一部6寸材も使っている。
・素材を自然のままに使用している。たとえば二階床の根太に松材が使用されているが、松材の左右にゆがんだような曲がりも何の違和感なく、かえって美しく力強くみえる。
・壁土は非常に決めの細かい良いものである。近所に良い土が出たとのこと。打撃を加えたくらいでは土は少しも落ちない。


4.建物の改修
4-1.改修骨子
  持ち主がどうしても(とにかく改修して)残したいとの意向を汲んで、改修に当たった。その際、当該建物は文化財の指定を受けるに十分な価値を有していることに鑑み、文化財保存の姿勢でのぞむことにして、当地の風土と当該建物の関係性をそこなわないように、また建物の気品を継承することに努めた。改修の理念は、建物に新たな命を吹き込むことである。このため、どのようなことをするのか悩んだ。具体的な骨子を次のようにした。
・第一には、建物そのものは、現況のまま改修することだから、壁は一切土を落とさず、荒壁とする。
・第二には、「対震」には上屋には一切手をつけず基礎部分で対応することにした。これは、現代技術を構造物本体に一切かかわらせないということである。
・第三には、改修後の使われ方にも踏み込み、持ち主に愛着のもてるものであるとともに、開かれたものとする。

4-2.曳き家
  基礎をやり直す際に、上屋を移動させねばならなかった。曳き家では、二種類の方法がある。ひとつは、土台の上の土壁を2cmほど水平にカットして、この隙間に土台を拘束するように鋼材を入れて曳き作業をし易いようにする工法である。いまひとつは、そのようなカットをせずにカスガイ(かけがね)を利用する方法である。今回は後者の方法を採用し、ジャッキは1cmほどの不同差の範囲内で、壁土を破損することなく、曳き家を行った。(写真6)

4-3.基礎・土台について
・改修前の基礎は石基礎であり、大谷石に似た近辺(砺波)から産出された石が使用されていた。
・対震については、地盤免震を採用し、上屋の耐震補修は行わないものとした。
・文化財においても対震性能をあげるために免震装置をとりつけることが流行だが、そんな方法よりも地盤のほうに免震性能を具備すること(地盤免震)の方がはるかに効果的であり、かなりのローコストになる。詳細は追ってレポートしたい。ちなみに、住宅には今流行の免震装置をつける必要はまったくない。
・木材の腐食を防ぎ抗菌するために、銅版を土台と布基礎コンクリートの間にかますが、その銅版の厚さは通常0.4mmのところを、1mmにした。この位の厚さがあれは銅版そのものの耐久性・荷重・腐食にも対応できるものと考えている。(写真7、8)

4-4.上部構造物
・垂木・野地板の上に泥を載せているので、泥の湿気が垂木の上端から内部にむかって腐食を進行させており、シロアリに食われていた。打撃音ならびに目視では、腐食しているかどうかはわからなかったが、念のために木材をはずしてみて腐食を発見したしだいであった。なお、今回の調査では、含水量測定、超音波測定、応力波測定は行っていない。(図2)
・土台については、「あて」材が使用されているので、虫食いは表面のみで深部までまったく達していない。写真では、傷んだ土台材を断面方向にスライスにし、材の(鉛直下方)下側2/3域の腐食部を除去した。上側1/3域では、木質の緻密さがしっかりとみてとれる。富山県木材試験場の栗崎氏によると、シロアリによる食われ方には種々あるものの、このような食われ方はたいへんめずらしく、なぜそうなったかはわからないといっておられた。(写真9)
・桁と梁の仕口部では、ほぞによる接合となっている。腐った桁を新木にとりかえたために、梁との接合をし直すことになった。ほぞそのものが痛んでいる梁の接合には、力の流れ、量を推定し、計算で検討し、下図のようにほぞの両側にそれぞれ楔を挿入した。(図3)
・木造構造物で100年も経過すると、全体に対して30%ほどの木材は傷んでいるというが、本構造物では、取り替えた木材は全体に比して10%にもみたなかった。これは、当該建物が斜面肩に立地していることにより、風通しが良いため腐らなかったものと思われる。このくらい腐った木材が少ないのは大変めずらしいことである。
・戸前部の梁が破損していたところの壁の一部が曳き家の際に1〜2cm程下にずってしまった。この部分については、竹小舞をやり直し、泥を塗りなおすことにしている。なお、壁土は福井県武生のものを下塗りに、当建物からのものを塗りなおした。(写真10、11)
・泥葺きの下屋根については、側壁頂部の壁塗りとともにやり直した。(写真12)
・壁については、漆喰仕上げや板張りなどあるが、荒壁は富山独自のもので、他の地域では見られない。ただ、防水性を向上させるために、一工夫を考えて、今はメーカーの方で実験を行っている。
・シロアリは、材を一度食したら、その後はその材には寄り付かないという習性がある。

4-5.施工に際して
・こちらの意図することをしっかりと伝え施工させるために、小さな現場だからこそ、毎日朝早くから現場を視ている。時として一日中現場にいたこともある。
・基礎工事では、建築の業者ではなく土木の方を使うことになった。
・コンクリートは羽根建設の提案によって高炉セメントを使った。耐久性に優れているからである。ただし、気温が摂氏35度を超える猛暑日が続くなかでの暑中コンクリートであったため、コンクリート管理には心を砕いた。
・曳き家作業では、壁土を一切落さないよう注意深く行った。

4-6.改修に携わって実感したこと
・自分がデイレクターとして施工を行っている。 選定した施工業者は文建協の仕事をも多数こなしているので、非常に高い技術を持っている。
・改修は虫害や腐食との戦いといった様相にあるといってよい。木質の鑑定を木材試験場にお願いした。雨の部材への浸透、土からの水分の浸透を構造物の形状との兼ね合いで、鑑定結果を活用した。


以下、シリーズ「隠れた建築」(富山支所)に続く


(取材・編集: 富樫 豊、 丸谷 芳正)