□茶室「碌々亭」の来歴 茶室「碌々亭」は、明治三十年頃に高山の永田家が、武者小路千家8代の一指斎(1848〜1898)に依頼して計画した茶室である。一指斎は完成を待たずして病を得たため、実兄である表千家11代の碌々斎(1837〜1910)が後を継いで完成させたと伝えられている。その後、昭和23年の秋に、佐藤助九郎(助庵)がこれを取得し、25年に砺波の佐藤本邸内に移築、29年の富山産業大博覧会に際して富山市内の佐藤邸に再移築、42年に佐藤工業ビル建設時にビルの4階に再々移築されている。その後、平成17年に佐藤家から富山市に寄付され、平成25,6年の2年に渡って富山城址公園内の佐藤記念美術館横に復原移築された。今回はこの移築復原の過程を紹介したい。 写真1 ビル内にあった移築復原前の外観 □解体調査のプロセス 建造物の修復・復原の際には、対象となる部分以外は出来る限り現状を維持することが求められる。今回も、少しでも元の形状で搬出できるよう考慮して部分解体とし、高所用デッキを使用してビル4階の窓より搬出を行った。移築先でも正確に元の配置となるよう、柱梁等の主要部材だけでなく、下地の貫や竹小舞、壁下の差し石まで全てに番付をふり、注意深く解体移築が進められた。また、解体調査の結果、ビルの天井高のために柱等軸部の頂部が切り縮められていることや、さらには小屋組架構部材が殆ど残存していないことが判明するなど、修復現場ならでは対応が求められることとなった。 写真2 ビル4階より高所用デッキにて解体部材を搬出 □痕跡・古図面からの復原作業 復原設計にあたって根拠としたのは、部材に残る痕跡と、残されていた創建当初の古図面である。柱の天井裏部分に残されていた当初の天井廻縁の仕口痕跡、壁土を掻き落とした下地の部材に書かれていた番付等々、様々な痕跡を手掛かりに古図面と照らし合わせながら作業が進められた。柱材は通常の修復では風雨により腐朽した根元部分を補修する「根継ぎ」が一般的であるが、今回は切り縮められていた柱頂部を補修する「頭継ぎ」を北山杉の磨き丸太(角材を継ぐよりも手間がかかる)で行っている。屋根は創建当初はこけら葺きであったが、維持管理や費用を考慮し、ガルバリウム鋼板でこけら葺き風に仕上げ、当初のこけら葺きの厚さを利用して垂木の成(高さ)を大きくし、屋根面の耐力補強を行っている。 見学時には、床柱・床框や巾広の床板・ヘギ板等の銘木や数寄屋建築特有の加工技術に加えて、上記のような修復技術にも目を向けて頂ければ幸いである。 写真3 切断されていた北山杉磨き丸太の柱頂部に新材を継ぐ復原作業 写真4 古図面や痕跡調査にもとづいて小屋組架構を復原 □明治期の千家/富山の近代茶道の遺構として 三畳台目の本席「不染庵(当初は五松庵)」と、寄付として造られた四畳半の「臥雲居」の2席からなるこの茶室は、完成させた碌々斎にちなみ、総称して「碌々亭」と呼ばれるようになり今日に至っている。明治維新後の茶道の困窮時代とも言われる時代を切り抜けた2人の家元(一指斎と碌々斎)の合作として歴史的な遺構であると同時に、富山の近代茶道史の一側面を表す価値の高い茶室である。 写真5 移築復原後の外観 参考文献 中村昌生『碌々亭「臥雲居と五松庵」』新住宅1975年11月号、新住宅社関連URL 富山市佐藤記念美術館 http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/s-art/ 大工と庭師の専門学校「職藝学院」 http://www.shokugei.ac.jp/