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ミーティング ➋ その2

目次

➋ ディスカッション

➊ 研究発表

両川

両川:簡単にいままでの研究を発表させていただきます。今は、東京大学の新領域創成科学研究科で、博士課程の1年目をやっています。 竹村さんと雨宮さんの後輩になります。今博士課程なので、どういうことを研究しようかについて話そうと思います。 主にラテンアメリカのインフォーマル地区を対象に研究したいです。 学部のころからエクアドルで研究をしていて、博士課程でラテンアメリカを対象にいくつか研究ができればいいなと思っています。 皆さんのように具体的な研究はないので、簡単な紹介になります。 学部のころからエクアドルのチャマンガで活動していました。 修士からコロンビアに滞在して、現地の大学と一緒に共同プロジェクトというかたちで研究しています。

1つ目はエクアドルの研究です。 2016年4月に、マグニチュード7.8のエクアドル地震がありました。 その被災地のチャマンガで活動しています。沿岸部の漁村で、500m範囲内ぐらいに4000人ぐらいの人たちが住んでいます。 ぼくは地震が起きたときにはいませんでした。 設計事務所でインターンをしていたときに半年間ぐらいエクアドルに滞在していたのですけど、 チャマンガに訪れて、現地の大学や海外の大学の人たちと一緒に復興プロジェクトに参加しました。 震災後に政府によっておこなわれた再居住事業の調査もしています。 震災直後に海沿いに住んでいた300世代ぐらいが内陸部の避難キャンプにうつって、そこから1年後にできた復興住宅地に住んでいる状況です。 一方、震災直後に住民が自主避難をおこなっていました。なのでかなり移動が大きい状況の中で現地に訪れました。

ここは、国内外から建築家や学生、ボランティアがきて、復興支援プロジェクトをやっています。 たとえば震災から2ヶ月後に、エクアドルの国内の建築家たちがあつまって、コミュニティスペースをつくったりしています。 その半年後ぐらいに、スペインの大学がメインとなって、1週間ぐらいでワークショップをおこないました。 ぼくも参加して、階段を補修したりしました。 竹村さんがインターンをしていたポートランド州立大学のセルジオ先生がここにきて、1ヶ月ぐらいで文化施設をつくる建設型のワークショップをおこないました。 さらに2018年の2月には、セルジオ先生の友達のミュンヘン応用科学大学の方がやってきて、2ヶ月くらいで完成させました。

ぼくも実際に復興プロジェクトに参加しながら、自分の研究をすすめました。 主に海沿いの中心部に住んでいた人たちが、政府の方針によって500mぐらい内陸部に移転されました。 そのなかで住民たちが自分たちでアクションをおこし、自らの居場所や仕事場を確保しようとしていたので、それを調査しました。

1年間ぐらいの各地区における人口移動です。もともとは海沿いにかなり集中していたのが、1年後ぐらいして、復興住宅地ができて、内陸側に移ったという状況でした。 もともとの家は壊れていたのですけれども、震災から半年もたたないうちに小屋を建て、スモールビジネスや食堂、商店、床屋などを自分たちでやっていました。

また漁師の移転後の変化について調査をしました。 そんなに世帯数が多くなかったので、震災後に移転した漁師たちにしらみつぶしに話を聞きました。 赤丸が震災後に移動していった漁師たちです。この人たちに話を聞くと、みんな復興住宅地に移っていました。 しかしなかなか治安の問題とかで、漁をするための道具を海沿いに置けず、漁をつづけることが難しいと聞かれました。 一方で、そのなかでも漁をつづけている人たちが一定数います。 その人たちがどうやって海沿いから移っても漁をつづけられたのかを調べました。 すると、内陸部に住みながら、海沿いに半壊だったり、のこっている家を仕事場や倉庫としてつかっていました。 また海沿いに移った人たちに、エンジンなどのモノを借りたりしながら、漁をつづけている様子が見られました。

震災があって家が半壊しても、漁師をつづけていた人たちです。 この人たちは、増築だったり、ただ修理するだけでなくて、半壊した家を増築したり、桟橋をあたらしくつくったりしてました。 たとえば震災前よりもボートをいっぱい置けるようにして、周りの移住した人たちにボートや道具を代わりに見てあげるということが見られました。 また人と一緒に床屋も移転していくなども見られました。

政府の方針としては、内陸部に移っていくということがあります。 海沿いに港とかもつくられて、半強制的に移転していくわけですが、住民同士が協力しあって、漁をつづけるためのアクセスを維持していたことが見られました。

修士論文は、長野の小さい集落をやりましたので、簡単に紹介させていただきます。 対象地は真木集落です。長野県小谷村にある小さい集落です。今はNPO団体の人たちが住んでいます。 1970年代にここに住んでいた人たちが離村して、その数年後にNPO団体が住み着いて、未だに存続している集落です。 昭和のときの集落の様子です。12軒の家があります。それぞれに屋号がついています。このなかにぼくのおじいさんの実家で、調査をしました。 ここは挙家離村で70年代に全員が移った後で、豪雪地帯ということもあり、半分ぐらいの家が自然に朽ちていきました。 そのなかでNPO団体が来て、家を壊したり、火事が起きたりして、家がなくなっていき、今は4軒です。

どういうふうにこの場所で暮らしているかということを調べました。 実際に通年で住んでいるわけではなくて、このNPO団体の人たちは、立地が遠隔地にあるため、自給自足のような生活をしています。 豪雪地帯のため、冬になると孤立してしまいます。そのときは、東側にある別の拠点に移って暮らしています。2つの拠点を行き来しながら暮らしています。 この中心にある茅葺屋根の家もかなり立派なのですけど、この家にだいたい10人ぐらいがそれぞれの部屋に住んでいます。

ここで土地とか家の所有権がどうなっているかをすこし調べました。 離村していった人たちがいまだに建物とか周りの山を所有しています。 この離村していった人たちが毎年あつまって、協議をおこない、NPOの人たちに今年も貸してあげるよといった、簡単なやりとりで一括対応している状況です。 登記簿を見ると、それぞれ12軒の家に土地とか建物とかが所有されているんですけれど、実際には一括でどうぞと貸されています。 村のものは皆のものといった「総有」という考え方が農村社会学ではやったのですが、「総有」の延長線上でいまだに管理されていることを調べました。

修士のころには、コロンビアに滞在しました。コロンビアのカリブ海側にあって、ギャングの中継地点にある都市です。そこの調査を今後したいです。 もともと農村部にた人たちが紛争で追われてきて、マングローブを開拓して、ここに住み着きました。 流れ着いた流木で道をつくり、おがくずを埋めて土地をつくるなど面白い場所です。

チャマンガでは研究以外に復興支援活動みたいなこともやっています。 現地でのプロジェクトに参加するなかで、家具をつくれるような、復興支援の建設をするときにつかう資材や道具を置ける場所がほしい、 と現地の人たちから出ていて、資材を保管するのと、職のない若者が非常に多い場所なので、そういう人たちがあつまって仕事ができる場所ということで、 地域工房をつくったらどうだということで、それを建設するプロジェクトを一緒にやっています。 今年の2月から、日本から10人ぐらいで現地にいって、実際に地域工房を建設するプロジェクトをおこないました。 日本からも大工さんに行ってもらってやっていたのですが、土地の話がまとまらず、隣の敷地で作りかけの住宅が放置されていたので、これをつかって工事をしました。

この地域では、ミンガという文化があって、家を建てるときに、周りの人も手伝うことで、日本でいったら結とかでおこなわれる文化です。 それをワークショップで実践してみようということで、2週間のうち3日間をミンガの日ということで、エクアドル国内の大学生とか、 近くの都市部に住む職人とか、もちろん現地のチャマンガの住民の人たちに参加してもらい、工事をおこないました。 参加者に写真を貼ってもらったりして、なるべくいろんな人たちと交流できることをめざしました。 最終的には簡単な屋根とスペースのある空間をつくって、2週間で一区切りさせました。 ここの地域工房としての運営を、現地のメンバーと調整している最中なのですが、コロナの影響でストップしています。

小野

小野:フィールドについて紹介します。 専門が都市計画で、研究のフィールドはアフリカやインドです。 岡山出身なんですけど、高校ぐらいからバックパッカーをはじめて、大学も3年ぐらい休学しながら世界をまわっていて、アジア・中東・アフリカ・南米がメインでした。 そのなかでアフリカがよくわからないし、一番おもしろくないという印象を受けました。 なんでこんなに面白くないのかというのがきっかけで、アフリカ研究をやろうということで大学に戻りました。 2016年に博士の学位をとって、その後愛媛大学にいって、2年前ぐらい前に豊橋技科大に移りました。 博士の最後の年に子どもが生まれていたので、大学の保育園に授乳しながら博論をかきあげました。

卒論と修論のテーマにルサカのザンビアを研究対象にしました。 ルサカは低密度なインフォーマル市街地が特徴で、開発援助の分野では、アフリカの優等生といわれていて、 世銀とかドナーがかなり入って、開発援助や行政がタッグを組んでいるような場所です。 1970年代に土地正規化の法整備がおこなわれていたので、土地所有と女性のエンパワメントの関係性について、卒論では調査しました。 そのときにザンビア大学の学生に手伝ってもらって、300世帯にアンケートをくばって、量的な分析をして、都市計画学会にも論文をだしました。 しかし量的にやると、わかったようでよくわからないとこがありました。 修論と博論では、統計で出てこないようなディテールとか、その背景にあることをもっと知りたいと思いまして、参与観察などの質的な研究に傾倒していきました。

ルサカは土地の所有がおもしろいです。 アフリカの特徴でもある慣習的な土地所有権がかなり残っていて、村長さんが土地の権利を担保しています。 正規化された公的な権利と、慣習的な権利で居住環境にどのような違いが現れるかを修論でやりました。

博士になり、都市比較をしようということで、ルサカとおなじくイギリスの植民地だったケニア・ナイロビと、 フランスの植民地だったセネガル・ダカールの3都市で研究しました。 ダカールでは詳細調査ができなかったので、ここではナイロビを紹介します。 ナイロビは市場原理でインフォーマル市街地が開発されています。 開発圧力がたかいということもあるのですが、土地は金なりといった認識が浸透しています。 インフォーマル市街地が中所得者層の投資先になっているという特徴があります。

ナイロビは治安が悪いことで有名ですが、私が調査していたころは、ソマリアの人たちによるテロがありました。 そんな状況で住民もかなりピリピリしていて、土地所有権ということもあり、なかなか協力が得られませんでした。 なら懐にとびこもうということで、半年ぐらい現地に住んでいました。 高層化したインフォーマルな開発も盛んでした。 この開発規範が何を参照してできているのかを調べました。慣習とか近代的な都市計画制度を参照しているということでした。

昨年はじめていった、ルワンダのキガリですね。密度的にはルサカの市街地に近いです。 低密で良好な市街地が形成されていた印象です。ルサカと違うのは、キガリ自体に平地がほとんどないということもあって、斜面地に形成されています。 住民自身が道路舗装とか排水溝の整備をやっているということで、オンサイトでの居住環境改善、あるいはエリアマネジメントのようなポテンシャルがあると感じました。 アジアや南米では、住民自身で改善するというのはよく見られるのですが、アフリカでは私が知る限りほとんどなく、 なぜキガリで実現しているのかということで、アフリカの好事例としてその要因について研究をはじめました。 道路も自分たちで整備していますが、気候変動による大雨の影響で、毎年土砂災害が発生していて、再定住プログラムを国交省が力を入れています。 その評価をしてくれという話があったので、どう考えてもよいプログラムじゃないんですけれど、学部生2人を連れて今年行く予定だったのですけれど、コロナの影響で難しい状況です。

インドのムンバイはここ3年ぐらいやっているフィールドです。 研究室を技科大に来てはじめてもったのですが、学生がインドをやりたいとのことでした。その子自体マレーシアの子だったのですが、ムンバイやろうということではじまりました。 その学生は水供給のマネジメントをやりたいといっていたのですが、私自身は都市空間と経済活動の関係性がおもしろいと思いました。 昨年は、革の産業をやらせました。インドはカースト制度が有名ですけれど、 出身地・民族・カーストごとにインフォーマル市街地内でもあつまっていて、社会的な属性が経済活動を規定するので、 それによって居住空間がだいぶ違うということで、その空間原理を経済活動との関係からあきらかにしたいです。

愛媛大学にいたときは、松山アーバンデザインセンターにいました。 センター長は東大の羽藤という都市計画・交通計画の人で、私が副センター長でした。 公共と民間と大学が連携するプラットホームということで、専門家が主導してまちづくりをやります。 松山アーバンデザインセンターでは、行政がお金を出しているので、行政の事業に多く関わっていました。

豊橋にきて、民間が主導するエリアマネジメント組織に関わっています。 豊橋駅前で再開発がすすんでいて、その地権者が中心になってお金を出し合って、エリアのビジョン策定とか、パブリックスペースを活用していて、会社の人たちと一緒にやっています。

去年に、復興デザインの全国組織を立ち上げました。私も一緒にやらせてもらっています。 キガリの急斜面地の移転も事前復興なので、自分の関心によせてやりたいです。

内閣府直轄の科学アカデミーの日本学術会議にも会員になっています。 内藤さんやシーラカンスの赤松さんとかと一緒に、本の執筆をしています。 そのなかに若手アカデミーがあります。 全国の若手のさまざまな分野の研究者が60名ぐらいあつまって、日本の若手研究者の研究環境の改善とか、ポスドク問題とかを政策的に改善しようとしています。 また学際的な連携とか、国際連携をやっていて、できるだけいろんな分野の人とつながりたいという意識があったので、私たちも一緒にできるのではないかと考えています。 あと、文系から理系まで、基礎研究から応用研究まで、いろんな研究者の人と話していると、研究が社会の役に立つということはどういうことかを考える機会になってます。

➋ ディスカッション

太田:両川さんに質問です。雨宮さんの質問をそのまま投げかけてもいいのではないかと思います。 外側から介入して、何かを建設することでうまくいくこともあれば、問題が起きるかもしれません。 地元の人たちが自律的にやっていることに対して、ぼくらが何かいう権利はあまりないと思いますが、 外から介入する人たちの倫理が、研究会の皆さんがもっているのではないでしょうか。

両川:外から入っていくという意識もあまり無くて、ぼくもこの場所に滞在していて、友達とかもいっぱいできました。 政府や中国系の支援とか、UNICEFの支援とか、公共サービスの国内企業とか、いろんな人たちがいろんな形で支援をしています。 海外からくるボランティアもそのひとつで、それを住民の人たちがうまく使って復興しています。それに対しては何もいうことはないですが、 いろんな人たちが関わっていくと、欠けている部分が見えてきます。 そのひとつが住民主体で、自分たちでアクセスを整備するなどのサポートがあった方が住みやすくなるのではないかと考えています。 海外の大学とか、自分たちも一緒にやろうということで、なるべく押し付けはしないようにしているつもりです。 自分たちが介入することで、住民同士の対立やグルーピングに対する評価ができると、介入しやすくなるのではないかと考えています。 メリットとしては、住民だけでは得られなかったサポートが得られることです。 政府の支援を得ようとすると、手続きが大変で、そこにたどり着けないこともあります。 それがスピーディーに手に入ります。 ぼくたち自身もそこから学ぶことが多いので、建築デザインワークショップやデザインビルド教育がまさにそれだと思います。 デメリットとしては、いろいろな主体がかかわるなかで、取り残される人たちが必ず出てきます。 たとえばチャマンガの端のほうに住んでいる少数民族とかがさらに取り残されていくことがあります。 また主体同士の対立が生まれてしまうとは思います。

白石:太田先生の内の人・外の人・第3者・外国の人みたいな話ですけれど、どこまで理解すればいいのかを考えています。 社会学者でもないし、建築とか都市計画の専門家としてどこまで理解すべきか、どこまで介入すべきかという線引がとても難しいと思っています。

両川:ラテンアメリカは、政府などのシステムと、住民たちの生活世界、NGOなどの中間組織で、それぞれがアクティブです。 日本だとシステムが中心になっていて、その橋渡しとして中間組織があります。 研究者自身も主体であって、研究者がフィールドに入ることは、自身も影響を受けているということで、主体/客体は切り分けられないとは思っています。

白石:私もフィリピンの事例を見ていて、日本のようにいい意味でも悪い意味でもサービスとかが整っておらず行政が整備しないなかで、 NGOとか中間組織の役割が大きくなるし、研究者の役割が大きくなると思います。

宮地:両川さんと竹村さんが現地でワークショップで何かを建ていますよね。 私もNGOのプロジェクトでバングラディシュのサイクロンシェルターにかかわりました。 それがどれくらい使うかと想定するかで違うと思いますが、設計者・研究者・計画者としてどれだけ関わっていこうと考えているのか、 運営する側としてどれだけ関わろうと考えているのでしょうか。 バングラディシュのサイクロンシェルターでは、地域がどのように使うかが無視され、避難所としても活用されないことが多く見られました。 建てた後の管理などでどのように関わるかを考えているのでしょうか。この研究会では実践している方が多いので、それを議論してみたいです。

両川:ぼくの場合ですと、住民がやりたいといったことを、一緒にやろうということで、かなりラフにはじまりました。 見切り発進というか、団体もなければお金もないということで、ひとつひとつ解決しようとしました。 クラウドファンディングとかもやってすすめたプロジェクトですけど、現地の体制が整っていることは大前提としてあります。 外からだけでは、運営とか、安全管理とか、自分たちがずっと現地にいるわけではないので、ずっとかかわってくれる人をコミュニティ内・国内で見つけることは大事です。 竹村さんとかは、NGO団体がしっかりしているので、プロジェクトがしっかりすすんでいますよね。

竹村:現地にはカマルフリーダというNPOがずっと活動していて、現地のことは基本そこを介しています。 いきなり現地で何かをつくって帰ってくるだと、運営がききません。 セルジオ先生の教えといいますか、カウンターパートがしっかりしているところに、建築的なサービスとして支援する枠組みのなかでやっています。 NPOのデイブさんに実績があること、デイブさんと一緒に活動しているチョムさんという女性の方がいます。 その方がちゃんとした方で、スラム出身で、その場所の環境改善にかかわっていきたいということで、デイブさんと家族ぐるみの付き合いをしています。 その方たちがしっかりしていることがわかっていたので、プロジェクトができました。 最初にスタジオ課題をやっているときは見切り発車で、学生の教育としてやること、 現地の人たちの利益になる役に立つものをつくるというスタンスではダメで、学生の教育を優先することは絶対するなとNPOの方に怒られました。 反省することが多々あったうえで、集めたお金のなかでも建築に回すものをできるだけ減らし、運営が長くつづくように運営のお金を残すというように、 建築の意匠を追求することは細っていった感じでした。やりながら自分の考えの甘さを反省しながらすすんできました。 設計者としては、その施設があるかぎりはお手伝いは絶対しようと思っています。 運営を見に行ったり、カマルフリーダのお金集めが困っていたらそれを手伝ったりとかをしようと思っています。 なので定期的にお邪魔する関係でありたいです。設計者のスタンスとしては、自由に、使いやすいように改修してもらったらいいです。 助言はするけど、こっちに決定権はないといいますか、作品として残せみたいなことは考えないスタンスです。

阿部:小野先生に質問です。序盤にアフリカはなんで面白くないのかというコメントがありました。 こういう直感が研究者の研究の個性になると思うのですが、なんで面白くなかったのかの答えはでたのでしょうか。

小野:面白くないというか比較の問題で、バックパッカーでアジアから回ってアフリカに降り立ったときに、 中東の都市としての歴史の厚みに対して、アフリカ都市は歴史が浅いといいますか、アフリカ自体は歴史があるのですけれど、 都市は100年前ぐらいに植民地としてイギリスかフランスがつくっているんですね。 どこにいっても、当時の流行りの近代都市計画で、それが100年たって朽ちてきて、それをアフリカの人たちが飼いならしているところがありました。 そのアフリカ的なものが何かがわからなくて寂しい感じがありました。農村部は面白いです。 彼ら独特の空間的なものや文化的なお祭りがあるのですが、都市部にはありませんでした。 逆に都市部には近代的なものばかりで埋め尽くされて、周辺部はインフォーマル市街地なので、彼らが自ら作り出した空間があったというところですかね。 逆に南米とかだと、400年くらい前にスペインがつくっているので、ペルーとかボリビアとかは地元の文化と融合していますよね。 アフリカはまだ融和しておらず、まだ別れています。