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ミーティング ➌ その2

目次

近代化・植民地をつうじた居住文化の変容

小野:宮地さんに質問です。 バヌアツでは、近代的な価値観・技術が今まさに入りつつある状況ですよね。 それへの抵抗や、地元の人びとのリアクションなどがあるのでしょうか。 アフリカの都市では、農村部からやってくる人たちが伝統的なものを持ち込みます。 一方、都市にくると近代的なものを目にして、そこで両者が交わります。 農村部の場合は、外から入ってきますよね。

宮地:伝統住居はバヌアツでもフィジーでも数%になっています。 ほとんどの住居が近代建築のようなバラックに変わっています。 しかし集落としては、皆が儀礼をおこなう広場は残っています。 バヌアツでは女性禁制の場所がたくさんあります。南太平洋では文化は根強く残っているといえます。 ただ住居については自然資源が調達できなくなっているので、マテリアルがトタンなどに変わっています。 南太平洋ではオーストラリアやニュージーランドの都市に出稼ぎにいく人が多いです。 家族のなかで男性はニュージーランドにフルーツピッキングに行くこともあります。 稼いだお金で家族・親族・コミュニティのトタンを買うなど、文化が少しづつ変化しています。 ただ都市部に行ったからといって、文化を変えようといった動きは見られません。 しかしお金を持ち始めると、マテリアルがトタンからコンクリートブロックへとグレードアップする流れがよくあります。

小野:伝統的な材料よりトタンがいいといった価値観はあるのでしょうか。

宮地:トタンは安く、簡単に手に入ることが大きいです。 伝統住居は人手と時間がものすごくかかります。 建設には3ヶ月〜半年ぐらいかかります。 トタンであればすぐ建設できます。 また伝統住居はコミュニティで協力して建設します。 1棟をつくるのに30人ぐらいが集まらなければいけません。 しかし都市に出稼ぎにいくから参加できないなど、貨幣経済化によってその整合性がつかなくなってきました。 それだったら大工を雇ってすぐ建設できるトタンのほうがいいという感じです。

小野: お金は何に使うのでしょうか。

宮地:一番大きいのはキリスト教です。 植民地化されたときにキリスト教が入ってきて宗教的価値観が変わりました。 その教会にお布施をしなければいけないということが第1の目的です。 いろいろな宗派がありますが、現地の人びとがキリスト教の教会を建て、毎週土曜・日曜に集会をやっているなど、コミュニティを維持する役割もあります。 2番目は教育です。学校に通わせるためにお金が必要となります。

政策・NGO・援助

小野:ルアンダのキガリでは土砂災害の危険性があるので、市街地の移転事業が大統領の肝いりでおこなわれています。 職も一緒に移動させているので一見よく見えるのですが、とても持続的ではありません。 アキノ大統領の政策がうまくいっているのは、計画がよいのはもちろんあると思います。 ただキガリと同じく政治的なモチベーションでしか計画が動き出さないのであれば、どうアプローチすればいいのでしょうか。 フィリピン全体での市民からの押上げがあるのですか。

白石:フィリピンは全体の4割ぐらいがインフォーマル居住者です。 メトロマニラだと20%ぐらいです。なので票をたくさん持っています。 そのためフィリピンは高度に民主化されています。 その人たちが団結すると大きなパワーになります。 またフィリピンはNGOが多く、NGO大国として有名です。 インフォーマル居住者のために活動するNGOがたくさんあり、そのネットワークがすごいです。 アキノ大統領のときに起きた組織的な変化により、NGOで活動してきた人たちが政府機関に入りました。 そのため政府とNGO、住民がきちんとつながっています。こういう動きは日本にはありませんよね。 多少の問題はありますが、既存のコミュニティに任せて、政府はお金だけをおろす方式が時間はかかるけれどよい方法ではないでしょうか。 東日本の後とかになぜそういう動きができないのでしょうか。 フィリピンでは1000億ぐらいの資金を投入し、2万世帯くらいの移住がうまくいきました。 50か所の住宅地を調べましたが、そこにはきちんとした住民リーダーがいて、NGOとディベロッパーが住宅を設計したり、技術協力をしています。

小野:ナイロビでは、雨季の時期に政治家が砂利をもってくると皆が寄ってくるといったレベルなので、詳しく教えてほしいです。

白石:フィリピンではそういうことを研究してる人がまったくいません。 政府機関の人たちも個々の情報はもっていますが、それを全体につなげているわけではありません。 その仕組みを整備することで、日本や海外の事例研究に役に立てようと思います。

阿部:宮地先生に質問です。ぼくが現地に介入するときは、支援というかかわり方はしたくありません。 ただそれは理想論にすぎません。たとえば、南太平洋島嶼国のソロモン諸島の研究者の関根久雄先生は、自律的依存という言葉をつかっています。 これは、周縁にいちづけられる南太平洋島嶼国では援助をさけることはできない。 けれども援助をうけるなかでも人びとの主体性を保つことができるという発言をしています。 このような援助を飼いならすといったような、現地の人びとが援助・支援にどのようにリアクションしているのでしょうか。 ぼくは援助なれも現地の人びとのたくましい反応だと考えています。

宮地:南太平洋島嶼国が植民地化されたとき、開発援助に頼らなければ国政を維持できない状況になりました。 ほとんどの国が赤字です。ヨーロッパのスタンダードに合わせて、都市にサービスやインフラを導入するには援助に頼らないと何もできません。 一方農村にいくと、人びとは自給自足の生活をおくっています。サービスがないとかを聞くことは数年前までありませんでした。 私が対象とする伝統住居が100戸ぐらい残っていた集落では、5年前までは水道も電気も通ってませんでした。 上水道もありませんでした。ここ5年ぐらいで水道・電気が通りました。そのような影響が徐々に出てきています。 私は復興とか住宅再建に着目していますが、今回調べているところでは、基本は自分たちで全部やろうというスタンスでやっています。 ただ徐々に支援が入ってきているので、不満が少しずつ出てきています。 今まで自分たちだけで全部できていましたが、政府が支援するようになりました。 そのため、次に同じような災害が起こったときも、支援をしてくれるという認識がスタンダートになっている印象を受けます。 また国際NGOが少し入っていますが、大きな影響がでているわけではありません。 貧困だから開発をすべきといった東南アジアのようなことは、南太平洋では見られません。

阿部:西洋近代化とは異なるルートを模索する動きはでているのでしょうか。そういう動きを地域的近代化とかいったりしますが。

宮地:今はその過渡期にあります。この研究会に入ったとき、南太平洋島嶼国で都市とは何かを考えてました。 首都ですら都市といえるかどうか。計画されているので都市ではありますが、皆さんが対象とする都市とは規模・成り立ちが異なります。 そのなかでインフォーマル居住とは何かを考えています。 基本的には都市とかインフラ・サービスは国連に頼って、オーストラリア・ニュージーランドのスタンダートにあわせています。

白石:支援について、JICAのプロジェクトをフィリピンでやる立場になっていると、やってもらって当たり前という雰囲気があります。 こちらが学ばせてもらっているというか、支援じゃないとは綺麗事では思います。 しかし実際にやると、お金を渡したのに現地の人びとが何もしないこともあります。 お前らは金をもっているから、もらって当たり前という感じです。 実際のアクターになると、自分のなかにある理論と、金を得るための大変な手続きなど、そこでのせめぎあいがあります。 都市の定義については、小野先生に聞きたいです。

都市とは?

小野:日本の都市計画制度のなかに都市の定義はありません。 世界的に統一された都市の定義もありません。 地方自治体や市の定義はありますが。 一般的には、一定の密度をもち、人が居住し、建物があり、第1次産業ではない人びとは主に暮らしている場所といわれています。 つまり自分たちが食べるものを、他の地域から手に入れている場所が都市ということになります。 ただこの定義はコロナのなかで変わると思います。 今、ポストコロナ時代の都市を提案するというコンペの案内を出しました。 都市の定義とはという質問がありましたが、各々が定義してくださいとしました。

太田:都市は問題設定のための概念ではないでしょうか。 定義はできませんが、この枠組みのなかで考えましょうというときに、都市は便利な概念だと思います。

小野:3.11の復興とかで、都市計画法が適用されるところと、農村法が適用されるところのせめぎあいがありました。 やはりちゃんと定義しないといけないでしょうね。

伝統住居の現代的な意義

太田:宮地先生に質問です。フィジーの伝統住宅はだいぶなくなっているといっていました。 メインロードに面しているところは結構残っていますね。何か理由があるのでしょうか。

宮地:フィジーのなかで、伝統住宅が100戸以上残っているのはこの場所しかありません。 この集落は1950年ぐらいに設立された若い集落です。 そのときのチーフリーダーが伝統的な文化がなくなるなかで、伝統文化を残すためには、伝統住宅を残さなければならないと考えていたそうです。 かなりつよいリーダーシップをもったチーフだったので、住宅をちゃんと残す方向になりました。 チーフは亡くなったそうですが、それから50〜70年たったあとでも、その影響がつよく残っているとヒアリングではいわれました。 建前かもしれませんが。本音としては、伝統住宅がそれだけのこっている集落が、フィジーのなかでひとつしかないので、観光資源として使えるからかもしれません。 集落として観光収入をえるために、一番目立つところは残そうというのが本当の理由かもしれません。 共同研究している人がまとめていますが、聞けば聞くほどその答えが変わります。 集落のアイデンティティとして残したいことと、観光資源だし残したいという気持ちがあると思います。 2016年に被災をうけたあとで、私の花宮では近代住居がさきに建てられたところで終わりました。 2019年の3月に見に行ったら、メインロードの住居は3ヶ月で14戸すべて建て直したそうなので、強い意思で残そうとしているといえます。

家屋の建て方にかかわる道義

川井:阿部さんに質問です。道義的秩序に関する話で面白い状況でした。 それを統括している長の存在が気になりました。長の発言権につよい力があるのではないでしょうか。 そのリーダーはどういう人なのか、ルールがどのように決められているのかを統括する人物について知りたいです。

阿部:長をどのように決めたかについては調査できてません。 昔から地域のために活動してきた人が20年以上住民委員長をつづけているということぐらいです。 ぼくが追っている同犠牲は、細かい日常的な秩序です。むしろ組織化されていないところで暗黙化に現れるルールといえます。 個人的には、リーターがかかわったり、住民同士の話し合いがおこなわれ、制度化・組織化してしまうととたんに面白くなくなってしまいます。 そういう正規の枠組みの外で発生しているデザインコードだからこそ面白いです。 今は、建物に関するルール・秩序は、かたちをつうじて住民間に共有されると考えています。 建物にかんするルールは、周りの建物をみればある程度想定できるということです。

川井:僕は彦根という場所の足軽屋敷を買って、そこを改修しています。 そのときに42条2項の法律に従ってセットバックしなければいけません。 それを食い止めようとするリーダーがいて、他者が変な介入をしないようにコントロールしています。 確かに法律になっていしまうと非常につまらないのですが、長が地域のなかで信頼と発言力をもつという政治性が少しでもあると、抵抗性がうまれるのかなと実感をもっています。 微妙な話ですけれど、長の存在って面白いです。

道義的な秩序について、再開発とかではなく、微妙なバランスが崩れてしまう瞬間があると思いますが、そのときに何が起こるのかを聞いてみたいです。 たとえば全く知らない人がその場所の土地を買い、住宅を建てるなど、何かの軋轢が生じることについて知りたいです。

阿部:非道義的な実践にたいする何かしらの制裁があると考えていますが、今のところその具体例は見えていません。 ただ誰かがやったらその流れに乗ってしまえということはあります。 スライドのなかで2階部分が見えない増築の例を取り上げました。 これは、最初に誰かがやりはじめたのをみて、他の人もそれを真似したと考えられます。 ようするに、他の人がそれを真似したとき、他の人がやっているという言い訳ができる物的根拠ができます。 このときに、非道義的なものが道義的なものへと転換するのでしょう。

川井:道義性なことが非道義性にかわることが連続的に起きているという感覚でしょうかね。 道義的じゃなかったものが、いつのまにか道義になっているなど、微細な動きの集積ですね。反転もあったりするわけですよね。

阿部:精霊信仰にかんする話だと、精霊からの制裁があるからそのような実践はやらないと住民は説明しています。 しかしそれが具体的にどのようなものかは説明できません。 あとから起きた出来事と制裁を無理やり結びつけているといいますか。 結局のところ、精霊からの制裁が実際にはおこらないとわかっているからこそ、非道義的といっている実践がおこなわれてしまうのではないでしょうか。 強制力がないにもかかわらず保たれている秩序ともいうのでしょうかね。

避難所としての伝統住居

川井:宮地さんに質問です。 災害が起きたときに、伝統住居に逃げ込むという話がありました。 彼らが伝統住居に逃げ込む根拠とは何だったのでしょうか。

宮地:フィジーではシェルターとしては使われていませんでした。 バヌアツの伝統住居は屋根が地面にそのままついています。 このような伝統住居に逃げ込みます。1980年代の文献にもその使い方について説明されていました。 このなかに逃げ込む理由は、屋根組が地面についていて、大人の男性だったら手を伸ばしたら屋根組をつかめます。 子供と女性は座り、男性が皆で屋根が飛ばないように自重で支えます。 伝統住居の居住環境は、窓がついている近代住居に比べると小さく、暗いので、現代的な生活をおくることは難しいです。 昔から伝統住居に逃げ込むととりあえず助かるといわれています。 またフィジーでもバヌアツでも、未熟な施工で建てられているので、トタンが飛んでケガをすることもあります。 優先順位としては、まずトタンの家には逃げ込まず、伝統住居に逃げ込みます。 それでも不安だったら森のなかに逃げるといっていました。それが一番傷つかないそうです。 フィジーでは、屋根と柱がピン接合になっています。 住居が倒れそうなときは、柱をわざと倒し、屋根を下に落とします。 天井がない一室空間になっているので、その下に生存空間がうまれます。 この中にいれば助かるという避難所というよりは、ここに入っても死なないよねという共通認識があるそうです。

川井:洪水は高いところに逃げるので、それと逆ですよね。 風から身を守るために穴のなかに逃げるという原理は知らなかったので面白いです。 屋根を体重で支えるとか。

宮地:JICAのプロジェクトでは屋根を高くしてしまったので、どのように自重をかけるかを考えなければなりません。

竹村:自重をかけることは、逃げるためにしているのか、家を守るためなのでしょうか。

宮地:2015年のときは、自分を守るためでした。 伝統住居は避難所として認識されていました。 昔は自分のものだったため、自分の家を守る意味もありました。 しかし伝統住居が数%になり、トタンの家が増えています。 サイクロンで強風がふくとトタンが飛んでいってしまうため、シェルターとして伝統住居が使われています。

家屋の所有形態

:阿部さんへに質問です。 フィールドの住居の所有形態について、持ち家と賃貸の比率はわかりますか。 それによって私たちが提案する改修に対する態度がことなると思います。

阿部:地区全体を調べているわけではありませんが、アパートがある程度あることはわかっています。 あと僕が調べた事例のなかでは、転売はおこなわれていません。 1985年に再開発がおこなわれてから、ずっと同じ人が住み続けています。 ただ田村順子さんが調べていましたが、地区内移動という現象はあったそうです。 しかし僕が調べた中では持ち家の人が多かったです。

:もともとスラムに住んでいた人たちがそのまま住み続けているということですね。

阿部:一部では、東北タイ・北部タイからの流入者がいます。 ただ南タイから流れてきた住民が確認できないことは、先行研究と僕の研究成果からわかっています。

材料・技術

竹村:宮地先生に質問です。伝統住居やローカルな材料を使うことに対して、かっこ悪いという価値観があるのでしょうか。 フィリピンの再定住地だと、竹から金属とかの工業化された材料に変えたいという意識があります。 外からやってくる建築を専門とする人と、ローカルな人との価値観が全く違います。

宮地:伝統住居が100戸ぐらい残っているところでは、その方が風土に合っているので残したいという人びとが多いです。 他の集落とかでヒアリングしていると、一番最初に植民地化されて、ヨーロピアンスタンダートの住宅が建ったときはそちらがいいという認識はあったそうです。 茅葺きの家よりそちらにしたいという流れがありました。 しかしそれを建てたときに、技術が未熟だったので、災害がおこると崩れたり、建てるのに時間がかかったり、 トタンをつかうと室内の温度があがり快適じゃなくなるということに気づいたそうです。 それで伝統住居の方がよいという認識になりつつあります。 トタンじゃないとかっこ悪いみたいな意識は感じません。 アンケートをとっても伝統住居のほうがトタンの家より災害につよく快適で環境にいいことは、8〜9割の住民が回答しています。 それでも近代化や貨幣経済化されたなかでは建てられないのが現状です。

竹村:伝統住居のほうがよいという認識ができていることはすごいことですよね。

宮地:南太平洋島嶼国ではそのような認識が強いです。 技術が未熟だから触れ戻しが起こっているのだと思います。 ちゃんとした近代住居を建てていたら、その方が災害につよく、エアコンをつけたら快適になると思います。 南太平洋島嶼国ではプリミティブな生活をしています。 トタンよりは自然資源をつかって暮らした方がいいという認識に戻ってきています。

竹村:建設産業が発展していないからこそ、そのような認識になってるということですね。

宮地:そうですね。職業訓練学校があるので、技術がだんだん追いついています。 ただ住宅は地域の大工がつくるという認識がありますが、地域の人たちが手伝っているので未熟なところがあります。 災害に強い住宅というところまではいっていません。それだったら伝統技術のほうが強いのではないかと思っています。

竹村:フィリピンだと、竹とかは一部の建築家がリバイバルしているぐらいです。 ローカルな建築はどんどん消えています。 それらにたいする古いとかダサいとか嫌だと言う感覚が結構違いますね。

小野:アフリカでは近代的で工業化された家がいいという認識があります。 その一方で、自分たちの故郷が田舎にあるという認識があります。 田舎の自然と溶け合った暮らしが、彼らにとってプライドでもあり、アイデンティティでもあるように感じます。 住宅はそのひとつの構成要素です。 フィリピンの竹の話は、田舎を否定するとともに、都市に対する憧れの裏返しなのですかね。 竹などの伝統的な材料を否定しているのか、住宅だけ機能的にもよくないという話なのか。 田舎も同時に否定しているのでしょうか。

竹村:調べたことがないのですが、竹は一時的な材料という思いが強いです。 竹からコンクリートブロックと金属に変えたいといわれます。 竹をつかう建築家から聞いた話では、竹が長く持たないことにフィリピンの人たちは抵抗があるそうです。 竹を液体につけて処理すると10年は持つそうです。 飴がたくさん降ると、竹はすぐ劣化してしまいますが、それが嫌だという意見を聞きます。 田舎に対する否定があるかどうかはわかりません。

宮地:私がみているところは農村が主ですが、首都のまわりで自然資源をもちいた伝統住居はほとんどみられません。 コンクリートブロックの組積造の住居が主流です。

竹村:コンクリートブロックが手に入りやすい材料だからでしょうか。 それとも小野先生がいっていたような、田舎的なもの遠ざかろうとしているのでしょうか。

宮地:首都近郊ではインフラが整っていて、室内にエアコンをつけることができます。 逆に竹などの自然資源は合わないです。 都市と農村のインフラの違いが影響しているかもしれません。 ただやっぱり日中は外で過ごしたいという方が多いです。

竹村:それは家の中が暑いからですか。

宮地:エアコンをつけないと暑いです。

竹村:外と変わらない気候で過ごせる伝統宗教の方がいいということですかね。

宮地:農村に行くとそちらの方が良いと希望する人も多いです。 首都近郊でもテラスを設けることもあるので、そこでご飯を食べている光景はよく見かけます。

プロジェクト・政治・NGO・情報ネットワーク

竹村:白石先生に質問です。 フィリピンは不思議な国で、世界的にみても先進的・民主的な建築プロジェクトもあれば、私がいっているようなダメなプロジェクトもあります。 そのギャップがとてもすごい国ですよね。

白石:私が調べているのは竹村さんのアンチテーゼです。 郊外にたくさんのローハウスが並んで、何千世帯もトップダウンで供給されています。 コアハウスなのかどうかわからないぐらい質の低いものが供給されています。 これにたいする住民たちの怒りから、NGOの人たちが動きたしたのだと思います。 住民は仕事もあるので遠くにも行けないということで、もうすこしちゃんとしたプロジェクトをやろうということではじまったのだと思います。

竹村:私たちが研究しているのは、同時期の同予算のプロジェクトですよね。 ものすごく力をもったNPOと優秀な方がたくさんいる一方で、行政の腐敗とかでストップしたプロジェクトとかもたくさんありますよね。

白石:フィリピンではNHAが住宅を供給していますが、あそこが元凶ですね。 ある意味フィリピンのすごいところは、何の進歩もなく同じものを何十年間も供給しつづけているところです。 2011年から大きな政策がはじまって、住宅の供給数がものすごく増えました。 けれど20〜30年以上前からダメなものが供給されつづけています。 私はなぜそれが改善されないのかを知りたいです。

竹村:賄賂とかも絡んでますよね。 フィリピンは賄賂がすごいじゃないですか。 それで儲かっている開発事業者がたくさんいますよね。

白石:NHAとまわりの組織の癒着がすごくて、予算をもっていくんですよね。 賄賂も非公式なインフォーマルなことになるのかもしれませんが、そのちゃんとしてなさがいいときもあれば、 フォーマルなものとしてはじまったときに、インフォーマルに悪い方にいってしまうこともあります。 フォーマル/インフォーマルは、政策運営についても色々いえるのかなと思います。

竹村:賄賂が動くことによって、公共のプロジェクトを民間のようにスムーズに進められるものもあれば、 逆に誰かが儲かるためにレベルの低いプロジェクトが大量に行われたりだとか、面白い国ですね。

白石:日本にフィリピン人を連れてきて、熊本地震の被災地をまわることをJICAでやりました。 そのときにプロジェクトの進行が早いといっていました。 日本の政策には待つ余力がないと感じます。 でも逆にいえば、実行力があるともいえます。 かたやフィリピンでは、実行力はないのですが、5年の政策が10年も15年もだらだら伸びていますが、それが許されていて、住民も一生懸命自分たちでやろうとしています。 住宅計画のプロセスの長さを待つ政策とか予算が大切だと思います。

竹村:どうしたらじっくり計画できるもミュニティになれるのでしょうか。 サポートしてくれるNGOが入ってきて、よい側の2万世帯にどうしたらなれたのでしょうか。 私がいっているコミュニティはダメだった8万世帯です。彼らはどうやったらよい側の2万世帯になれたのでしょうか。

白石:それは情報にアクセスできたことじゃないでしょうか。 Peole's Plan という政策がはじまったことを知らない人がほとんどでした。 皆が携帯をもっているとはいえ、情報は以外と行き渡りません。 それを一括化して、フェイクNGOではなくちゃんとしたNGOにいきつけて、サポートを受けられるプラットフォームをJICAで作ろうとしています。 貧しい人たちが持っているものを活かせればと思います。フィリピン人もSNSとか好きじゃないですか。

竹村:フィリピンだと、政治家がスラムに金をまいて票を買うじゃないですか。 政治家がそのような情報を教えてくれるのでしょうか。

白石:政治家というよりはNGO経由じゃないですかね。 NGOの力がとっても大きいです。 50か所ぐらいの住宅地を調査しましたが、NGOが活動の核となって、住民同士をネットワーク化していたりします。 お金だけは政策からつかうけど、政策とは別のところで動いていることもあります。 ネットワークに入り込めた人たちはよい住宅地に入れます。 そこから漏れた人たちはトップダウンの政策に従うしかないと思います。 ただ鉄道が建設されたりすると、郊外の住宅地の位置づけが変わるかもしれません。

参加・可能性/不可能性

竹村:今、経済発展がどんどん進んでいます。 郊外ですけれど病院が建ったりとか、街も大きくなっています。 ただ計画プロセスが住民参加になり、彼らが決められたらいいなと思いました。 キャパシティ・ビルディングじゃないですけれど、コミュニティの能力をあげることもできたのではないですかね。 私のいるところではコアの活動がとっても弱いので。

白石:日本の参加型開発のように、イデオロギー的に参加がいいというわけではないと思っています。 誰も助けてくれないから、自分たちでやるしかなく、そっちのほうがマシだということじゃないでしょうか。 自助や参加がいいというけれども、本当にそうなのかは自分自身を問いただす必要があります。

阿部:参加について、雨宮先生が著書のなかでのべていたように思います。 住民をとにかく参加させるのではなく、専門家が手すりを設置することで、増築を制限するとか。

雨宮:僕らはフォーマルサイドとして参加するわけだから、その後のインフォーマルなアダプテーションにたいして、何でもできるわけではないですよね。 可能性と不可能性をフォーマルな提案のなかに組み込むことが大事です。 何でも参加させればよいというわけではないですね。 そうしないと環境が悪化して、また同じことの繰り返しになります。 われわれは提供する側として、最低限の環境を担保することを目標にした方がいいと思います。

白石:可能性というのは、参加を考えるうえで重要ですね。

竹村:やってはいけないことを共有することは難しいですね。 再定住地には家の前に汚水タンクがありますが、その上にどんどん増築してしまいます。 そもそも計画地に下水道を公道に出せばいいのですが。 汚水タンクのマンホールの上にモルタルを敷いてしまうので、アクセスできなくなります。 下水道が詰まっても、掘り返さなければ開けられない状況です。 住民を参加させずにただ与えるだけだと、ルールを知らずに増築してしまって、10〜20年後に下水がオーバーフローして、快適に住めなくなってしまいます。 よかれと思ってやった増築が自分たちの住宅の質を落としてしまいます。やっちゃいけないことを共有するための参加はすごく大事ですね。

雨宮:僕はメタボリズムとかの議論をリファレンスしています。 黒川さんはいかに増殖させるかを提案していますが、槇さんはヴォイドを先に設定して、そこを残した上で増殖させる提案をしています。 そのヴォイドは崩してはいけないということですね。 ヒルサイドテラスの計画にありますが、外部空間を担保したうえで、細やかな自由な建設を共有しています。 そういう考え方は面白いと思っていて、ジャカルタのプロジェクトでは参考にしています。

適正技術・材料とその変容

竹村さんの竹がかっこいいかどうかという話がありましたよね。 アルゼンチンで木造の建物をつくったら面白いという話でチーム内で盛り上がっていますが、地元にもっていくと、 なぜ木なのか、鉄骨で作ってくださいといわれるのではないかということを危惧しています。

竹って色がついている素材ですよね。 僕は竹のプロジェクトで、何週目の竹のデザインなのかを見ています。 ピュアな伝統の生態系のなかの竹からスタートして、工業化があって、観光化があるなど、竹をつかうデザインが何周もしていますよね。 両川くんがやったワークショップであちらの大学の人たちが使っていた竹は結構怪しく見えます。 竹を安易に使っている雰囲気もありますね。 ベトナムの建築家がつかっている竹も怪しいですね。 僕が竹を使うときはそういうところを見ています。 そのなかで宮地さんの伝統的なサイクロンシェルターがすでにあるなかで、新たに提案されていたものは何を狙っていたのでしょうか。

宮地:バングラディシュの提案では、自然資源は一切用いていません。 ほとんど津波シェルターになるので、コンクリート造になります。 バヌアツでやったJICAの草の根では、伝統住宅のアップデートということですが、住宅としての機能は失われています。 住宅としては居住環境がよくなかったので避難所として設計しました。 ただし避難所として設計してしまうと有事しか使われなくなるので、平時の使い方も考慮した伝統住居型サイクロンシェルターを設計しました。 防災研の構造系の西島先生がサイクロンにつよい構造を提案し、小林教授が設計をしました。 構法は現地のものをつかっています。ただ建物を一回り大きくして、避難所としてのキャパシティを増やしました。 また自重をかけないと飛んでしまうので、フロアと屋根構造をつなげ、フロアに人が乗ったら荷重がかかって屋根が飛ばないような設計に変えました。 伝統住居ではなくなっていますが、伝統的な構法をもちいたものをバヌアツでは提案して、作りました。 2017年につくって、プロジェクトが終わったあとに追加で2棟つくったという報告を受けています。

バングラディシュでは、ハーフビルドで高床にする柱とスラブをコンクリートで作りました。 もともと現地にある構法で、木造の2階をつくりました。 ただバングラディシュでは高波被害が多いので高床であることを優先しましたが、サイクロンで床が飛ぶので2階に住んでいると不安だということでした。 そのため構造は木なのですが、壁は煉瓦造につくりかえたりしています。

雨宮:バングラディシュとバヌアツでは状況が違うのですね。

宮地:バングラディシュでは風だけじゃなく水にも対応しなければなりません。 卒業設計をしたときは、制約が多すぎて自由にデザインができないし、人の命も守らなきゃいけないので、伝統技術や自然資源をもちいることで命を落とす危険性もありました。 そのような設計の難しさがあるので、バングラディシュではハコモノ支援になってしまうと感じました。 バングラディシュでは、貧しい人たちにたいしてコンクリートのシェルターをつくると技術のギャップがあり、メンテナンスが浸透しません。 南太平洋では、伝統技術と近代技術をハイブリッドすることができるポテンシャルの高さを感じました。

両川:宮地さんに質問です。バンブーグリーンハウスプロジェクトが面白かったのですが、あれは全部竹でつくっているのですか。

宮地:構造にはすべて竹を使っています。 本当はすべてを自然資源でつくりたかったのですが、接合部にはボルトやワイヤーをつかっています。 背景としては、西日本を中心に放置竹林が増えていることです。 行政から竹を伐採する支援はでますが、その処理をどうするかが考えられていませんでした。 農学の人と話していると、林野庁のなかでも、竹は森林でもなければ耕地でもない微妙な存在で、研究がされていないそうです。 そのなかで竹を資源として使うためにはどうすればいいのかを考えました。 法的には、竹は構造材には使えないですけれど、ビニールハウスだったら法をかいくぐってつくれるということで、教授が提案しました。 私はそれに途中から参加して、それをどのように普及して、つくりやすくなるかを支援しています。

両川:放置されていた自然素材で、伝統的に使われていたものを近代的な技術によって再び活用するということですね。 トタンの話のように、中途半端に使われているがために脆いという話がありました。 近代的な技術がそこまで発達していない場所において、材料的には近代的ではないけれど、 新しい技術を持ち込んで新しいデザインだったり、強い建築にするような方向性があれば面白いなと思いました。

宮地:南太平洋の一部の地域では、接合部の結び方がとてもきれいです。ただ私の対象地では括り方が雑です。 自然資源の縄をつかっていますが、皆の結び方がことなります。 それではもたないということで、日本の白川郷の伝統住宅で使われている箱結びをもっていき、レクチャーしました。 これが日本では伝統なのですが、南太平洋にもっていくと新しい技術になります。 ただきちんと伝えないと、見た目はよいのですが、あとでみてみると全く接合できていないこともたくさんありました。 あとは技術を持ち込むことで、現地の文化を変えてしまう責任をどこまで考えるかについては先生のなかでも議論になりました。 それがいいことについては自分は反対だという人もいました。

多様なフォーマル/インフォーマルのあり方・スケール

両川:近代的な技術も伝統的な技術も場所によって相対化されているということですよね。 たとえばフィジーで伝統住宅が近代的なものに置き換わるときに、研究会でかかげているインフォーマルを考えたときに、どっちがインフォーマルになるのかは考えています。 僕も農村・漁村を中心に調査をしましたので、そこを考えたいです。 都市は問題設定のための定義だという話でいうと、フォーマル/インフォーマルもそのように見れるかと思っています。 伝統的な住宅がコミュニティのなかではフォーマルになっていると考えたら面白いですね。

宮地:伝統技術がフォーマルなのかインフォーマルなのかということは私も考えてます。 建築だと、工学的な観点からみて、科学的な根拠から定めてしまうかもしれません。 それでも現地では近代化がおこる前から、何百年という単位で使われてきたものを、 近代化されていないからインフォーマルと見なしてしまうのか、その定義についても研究会のなかで話していければいいと考えています。

雨宮:阿部さんがいっていたような、道義的建築みたいなものが慣習になって、伝統になったり、制度になってしまうとつまらなくなるという話と近しいですね。

両川:今の話と関連させると、農村だと場所とかコミュニティごとにフォーマル/インフォーマルの枠組みがわかれていますよね。 法律的には合法だけど、コミュニティ的にはインフォーマルな状況もあるのではないかと思いました。 法律的にはやって大丈夫だけれど、コミュニティ的には景観がわるくなったり、皆の場所だからやめたほうがよいといった話があるのでしょうか。

阿部:僕もそれを知りたいです。 僕が道義の概念をつうじて、法律的には違法なのだけれど住民間で許容されているか、合法だけれども住民が拒絶しているものとは何かを知りたいです。 ただその具体例まではわかっていません。両川さんのところではそういう例はあるのでしょうか。

両川:パッとは思いつかないですが、途上国では制度ががんじがらめになっていないからこそ、抜けやすくなっているのではないでしょうか。

雨宮:ジャカルタのチキニでは、家事を起こした人は近隣のコミュニティの半分以上の合意がないと戻ってこれないです。 コミュニティルールですね。 インフォーマルな土地所有なので難しいですが、基本的人権という意味では、本来許されるべき、戻ってこれる場所だけれど、チキニでは許されない状況はあります。

太田:それはチキニだけなんですかね。僕が行っているカンポン・アクアリウムでも2回火事がありました。 その火事のあった土地は広場になっていて、それ以降何も建てられていません。

雨宮:何も建っていない広場について、インドネシア大学の人が調査したら、そういうローカルルールがあったそうです。

太田:阿部さんの道義の話をきいて、普段京都で研究とか地元に入っています。 これも道義のひとつかと思うのですが、景観とか云々ではなく、上から家のなかを除くのは良くないとかがありますよね。 ハレとケの空間があって、外からよそ様が覗いてはいけないという話は聞いています。 制度的にはある程度の高さまでは建てていいのですけれど、気持ちいいものではないですね。 強制力はありませんが。

雨宮:住宅を設計するとき、隣の家に向かって大きな窓を開けたら嫌がられるとかもありますよね。 窓の開け方は、再考計算とかで決められるものじゃないですね。 設計は9割はインフォーマルなジャッジで、残りが建築基準法で決まるということはよくありますね。

白石:フィリピン人を熊本の被災地によんだときに、なぜ壁をカラフルにしないのか、何か決まりがあるのかと聞かれました。 フォーマル/インフォーマルの話って、合法/違法だったり、暗黙のルールの話まで広がるので難しいですね。

両川:ラテンアメリカのインフォーマル地区でも、壁の色はカラフルです。 ただあるときは黄色だったり、緑だったりします。 その理由として、政権が交代したときのプロパガンダで塗られることがあります。 ラテンアメリカのインフォーマル地区は母数が大きいです。エクアドルだと国民の4割がインフォーマル地区居住者なので、それだけでひとつの政権基盤になります。 ラテンアメリカではインフォーマル地区がなくならない理由のひとつに、占拠の支持基盤になることが関係しています。 一斉撤去すると政権を獲得できなくなるから撤去できないということです。そのような構造的な問題があります。 ただ住民の主体的な立場からみると、自由に色を塗れた方がいいですね。 全体レベルと個人レベルのインフォーマルなあり方のスケールの違いがあると思います。

白石:フォーマルもインフォーマルもスケールが沢山あるって事ですね。